トイレの蛇口強くひねってそういえば世の中の仕組みがわからない 望月裕二郎

所収:『あそこ』書肆侃侃房、2013

 この「そういえば」の感覚が、望月の短歌にはよく登場する(以下引用はすべて同歌集)。

 立ったまま寝ることがあるそういえば鉛筆だった過去があるから

「そういえば」そうだった、と主体が思い出す。読者としては、そんなことを何故今になって思い出すのか、とか、何故そんなことが今まで忘れられていたのか、と思う。「鉛筆だった過去」をどれくらい真実のこととして受け取るかによって、「そういえば」の印象は変わってくるだろう。
 これらがもっとフラットに言われるとすれば、「そういえば」「から」のような強い因果関係を示すことなく、映像と感覚・感情をそのままくっつけて切れの部分に「そういえば」要素を受けとってもらうことになるだろう。それを敢えて「そういえば」と書くことによって、主体の感覚や性格が見えてくる。冷静だったり瞬時に判断するのではなく、行動の中でふと思い出して、そうだったなと思って、元の行動に戻る。行動はスムーズでも、思考が一瞬遠い所へ行く。この緩慢さが、独特の雰囲気を作り出しているように思う。

  十月一日
 メール一通送るエネルギーで他に何ができたか考える。

「十月一日」は詞書。この歌も、おそらくメールを打って送るという動作はふつうにしていて、ただ思考だけが徐行している。メール一通を送る程度のエネルギーで別に他の大きなことが出来るとも思っていない上に、 「メール一通送るエネルギーで他に何ができたか考える」エネルギーもまた無駄になってしまうことを、おそらく知っていながら考えている。ぼんやりと遅い。

 町中の人がいなくなる夢を見ておしゃれでいなくちゃいけないと思う

 この歌はその緩慢さがいい方に転んでいる作品であると考えている。上の句と下の句の間に、「夢を見たからそう思った」の「から」の部分が隠れているように読める。ふつうに考えて、そんな夢を見たところでおしゃれでいなくちゃ、とは思わないところを、この主体は直接つながってそう思っているという点が面白い所である。ただ、きっとこれも、夢を見てからそう思うまで、「そういえば」と思って、思考が飛んでいると推測する。そして「そういえば」が脱落して、夢を見たからそう思ったようなこの作りになって、また違う面白さが生まれたのではないか。

 最初の掲歌〈トイレの蛇口〉の歌では、トイレの蛇口をひねる行為と、「そういえば」と、「世の中の仕組みが分からない」で出来ている。これも「そういえば」が無くても成立はするだろう。しかし、「そういえば」。トイレの蛇口をひねることで自分の中である気持ちが発生して、思考が飛んで、「そういえば」そうだった、となる。立ったまま寝たり、メール一通を送ったり、蛇口をひねったり、そういう些細な行為で頭が引っかかる、行為と思考の速度差がある主体が見えてくる。「強く」ひねったことで世の中の仕組みの不可解さ・ついていけなさに考えがいったが、この主体であれば、弱くひねることでも、また違うところへ行ってしまうような気配がある。

 外堀をうめてわたしは内堀となってあそこに馬をあるかす

 このような歌も、「外堀をうめて」のあとに「そういえば」の感覚が見える。思考がどこかで自由に飛んで行ってしまう、そのポイントを探しながら読むと、望月の歌をより愉しんで読むことが出来るのではないかと考えている。 

記:丸田

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