所収:『山色』 永田書房 1983
「たとへなきへだたりに鹿」というフレーズは人間と鹿の距離感を言い留めている。
ディズニーのアニメーション映画『バンビ』(1942)に代表されるように、多くの人は鹿を無垢で純粋で触れがたい動物としてイメージする。だからこそ鹿は、親しみを覚えながらも犬のように愛でる対象でもなく、猪のように恐れる対象でもない。野山でふと出会う鹿と人間には近く、遠い「たとへなきへだたり」があるのだ。
この人間と鹿の間にある微妙な距離、そこから生まれる緊張感が「夏に入る」と、季節と動詞による動きが加わることで上5中7の空気とはまた違う味わいが生まれる。
「入る」という動詞は鹿の動きのことのようにも思える。人間と鹿が見つめ合うことで生まれていた「たとへなきへだたり」の緊張感は、鹿が動くことによって失われる。その緩んだ瞬間に、時間の流れが、夏という季節が現れたのだろうか。
抽象的な言葉の連なり故の透明感と句の内容が合っている。
記:吉川
たとへなき、のように何かを言っていないようで何かを言っているような微妙さは考えどころですね。勉強になりました。