緑色の受話器は海に沈みつつ呼べどとこしなえの通話中 蝦名泰洋

所収︰『イーハトーブ喪失』(1993 沖積舎)

 受話器から海という単語の移動距離は大きいように思うが、それをほとんど違和感がないくらいに呑み込ませてしまう映像の力がある。
 描かれていることとしては、緑色の受話器があり、それが海に沈んでおり、「呼べど」、とこしなえ(≒とこしえ≒永久)の通話中であったということ。海中に落ちて行く緑の受話器が頭の中に映る。

 この歌において、「呼べど」が非常に大きな役割を担っており、これがあることで実感と奥行きが生まれていると考えている。
 もし、「呼べど」が無く、さらりと繋がっていたとすれば、〈緑色の受話器は海に沈みつつ今もとこしなえの通話中〉くらいになるだろう。こう見ると、緑の受話器が海に沈んでいて、それは永久の通話中である、というシンプルなものに落ち着く。海の中で電話なんて、もう壊れてしまっているはずで不可能にもかかわらず、今も何かと確かに通話している、という不思議な話だ。その通話先の相手が誰(何)なのかも気になるが、こちら側が何なのかも気になる。「海」?「受話器」自身?それとも……。

 ここで「呼べど」があることで、急に話が変わる。永久の通話中であることを強調しているというのはあるが、それよりも誰かがその受話器へ電話をかけていることが強く表れる。ただただ受話器が通話中に入っているわけではなく、呼んでいるのに! という切迫したリアルな状況が加えられている。誰かにとっては出てほしいのに、一向に通話中に入っている。これによって、「とこしなえ」のニュアンスも若干変わってくる。永遠に受話器が通話しているという幻想的な話に終わらず、呼んでいるのに永遠に出ない、その永遠に死の影が薄く見えてくる。もちろんそうとは限らないが、海難事故などで人が死んで、その人へ電話をかけているが、繋がらない、というような……。

 ここで一つ改めて思うのは、「呼べど」なのであって、「かけても」ではない点である。電話といえば次に来る動詞は(自分の中では)「かける」や「きる」が多い。この歌も、私は実際のところ、電話をかけても通話中だった、くらいのニュアンスで最初は受け止めていた。ただよく考えて、「電話をかけても」と「呼んでも」では、やや違ってくるなと思った。もちろん電話の内容にもよるところだが、「呼ぶ」はより切実なもののように感じる。
 というのも、「呼ぶ」という行為は、相手が「通話中」だと分かった後になされることのように思うからである。電話をかけて、繋がらず相手が「通話中」だったとき、わざわざ相手(例えばその名前)を呼ぶことはない。通話中だったから時間を空けてまたかけ直したとき、また「通話中」、時間を空けてまたかけてまた「通話中」だったときに初めて、「おい○○、電話に出てくれよ!」というような、「呼ぶ」行為が出てくるのではないだろうか。そうやって、電話をかけて、「通話中」、「呼ぶ」、「通話中」を繰り返すことで、「とこしなえの通話中」がそこで認識されるのだと思われる。ただふつうに電話を「かける」のではない、電話に出てほしいとその相手を何度も求めつづける気持ちが「呼ぶ」に詰まっているのではないか、と考える。それ故に、「呼べどとこしなえの通話中」には重みと海のように深い悲しみがある。

 この「呼べど」に着目したのは他にも理由があり、それは映像の切り替わりの問題である。ただ受話器が落ちていてそれが通話中だったというのなら、海と緑の受話器だけで映像は片付く。しかし、「呼べど」の入り込みによって、一気に事態が変わる。

 映像の中心が沈下中の受話器であることには変わりないとして、上述の事情で、「呼べど」であるからには、必死に求めて呼んでいる誰かがいるはずだと考えられる。すると、沈んでいる受話器(海)と、関係ない場所で電話をかけている誰か(陸のどこか?)という二つの景色が浮かんでくる。
 神の視点で、落ちて行く受話器は通話中であると述べるだけで終わるところが、「呼べど」という気持ちが入った行為が入れられることで、呼んでいる側が存在し、その人が「とこしなえの通話中」を感じていることが見えてくる。

 となると疑問になってくるのが、その呼んでいる側の人は、相手の「緑色の受話器」が、今「海に沈」んでいる最中なのを知っているかどうかということである。
 知らないから、何度もかけて、通話中だなあと思って、呼んでいるのか。はたまた、受話器が沈んでいて、繋がらないことを分かっているにもかかわらず、何度も何度も電話をかけているのか。後者だと、「とこしなえの通話中」であることの悲哀が倍増して伝わってくる。

 どちらかを特定するまでは出来ない。ただ、沈んでいる受話器と、呼んでいる誰かとがいるだけである。事情は後からついてくるものであり、語られない限り分からない。「呼べど」によって発生した語られていない事情が、この歌に奥行と謎をもたらしている。

 「呼べど」以外の点として、韻律は下の句の句またがりの心地よさを評価したい。「よべどとこしな/えのつうわちゅう」のなめらかな跨り方が海に沈んでいる動きと重なるようで、一層この歌を印象づけていると思う。これは完全に個人的な感覚の話になるが、「(よべ)どとこ」の部分の o 段の連続から「(とこ)しな」と、 a 段になっていくことで水面に上がっていくような明るさがあり、「つうわちゅう」の u の音で伸びていくことで、さっきの明るさは錯覚で、やっぱり沈んでいる最中なんだ……と思わされるような気になった。

 また同じ作り手として、単語の持ってきかた(ワードセンス?)が良いと、純粋に思った。「受話器」「通話中」の単語はこれだけなら電話しているだけの小さな話になりそうな所を、「緑色」というさりげない色の立ち上げ方と「とこしなえ」という少し特殊ぎみの副詞を持ってくることでオリジナルな話になった。「海」を持ってくるとだいたい急に素敵になってスケールが大きくなるから甘えて使う人がいるが、これは完全に海を味方につけて使いこなしていると思った。メタな見方であるので歌の解釈とは関係ないが。
 どのパーツもこの歌を描くのに欠けても増えてもいけなかった、というような、単語に行き渡る気配りのようなものが見えて、個人的にはそこにも好印象な歌である。

 一体この緑色の受話器は今、誰(何)と、何を通話中なのかという魅力的な謎を残して、この歌は記憶されることになる。私は、いつでもこの謎に耽られるよう、頭のなかの海にはいつも、緑色の受話器を沈めている。

記︰丸田

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