所収:『高柳蕗子全歌集』(沖積舎、2007)
この「ように」は妙な動きをしている。
あばかれる秘密。核となる真実があって、それを隠すために色々な覆いがあって、秘密という物は成り立っている。それが暴かれるということは、その覆いを剥いでいく動きになる。
その「ように」、一人ずつ、オーケストラの一員が沼から上がってくる。楽器を弾きながらなのか、黙ってぬめぬめと歩いてくるのかは分からないが(沼の中なのだから楽器はやられてしまっているだろうと思うものの、この世界ではそんな理屈は通用しない気がする)、とにかく上がってくる。そして、おそらく最終的には、このオーケストラは完成するだろう。
秘密の方が、100有ったものから剥いでいって1にする動きとしたら、オーケストラは、1を増やして100に戻す動きのように見える。暴かれていく秘密に順当に重ね合わせるなら、オーケストラの中の一人が何らかの犯罪の真犯人で、アリバイを照らし合わせて一人ずつ候補から外していく……そんな風になるのではないか。
「のように」と言っておきながら、イメージとは逆の光景が付けられている……。
もし、後半を活かすのであれば、建設途中のビルのようにとか、積み木を積み上げるようにとか、ジグソーパズルを作るようにとか、色々考えられそうなものなのに、である。
ジグソーパズル。
私は、直感で、この比喩はおかしいと思った。からこの文章を書こうと思ったわけだが、この歌に、この「ように」に全く引っかからなかった人もいるだろう。私も途中で、ジグソーパズルのことを思っていたらその読み方が分かった。
どうしてもイメージにそぐわなかったのは、数量の意識である。「あばかれる秘密」は最終的には一つで、「オーケストラ」はすごくたくさんの人が集合している、というイメージがあった。「一人ずつ」という演出の仕方も、絶妙にオーケストラを複数のものとして想像させている。
この大人数のオーケストラを、総体として一とすれば、納得が行く。
ジグソーパズルはまさにそうで、ピースが複数個あつまって一つの絵が出来上がる。
ピース間の秘密が少しずつ暴かれていって、絵、真実が明かされることになる。
そう考えれば、この「ように」は、本当に「ように」なのだろう。
そこで面白いのは、この歌では、何も解決していないこと。このオーケストラが完成して、何を演奏するのか、何を語るのか、分からない。何故沼から? という疑問ももちろんある。
あばかれる秘密、の話をしていると思えば、より謎が深まっている。謎を解くようで謎を深めている良い作品だと思う。秘密が暴かれるシーンのイメージの仕方、「一人ずつ」にどれだけ重きを置いて読むかによって意外と見え方が変わってくるような気もする。
そういえば、この「オーケストラ」の観客は誰になるのだろう? もしかして読者になるのだろうか。それは気が進まない。聞くと絶対に気がくるってしまうから。意外とふつうに綺麗な演奏が聴けたりして……それもまた怖い。
記:丸田