所収:『緑色研究』1965年・白玉書房
夏至という日は光が最高潮に力を強める一と日であるからには、むろん闇への折り返しを控えている冷ややかな感触がかすかに、しかし確かに印象される。言うなればアポロンとデュオニソスの鬩ぎ合いのカタルシスの祝祭なのであり、われわれ読者は燦燦と輝く太陽光線からアポロンの衰弱と、デュオニソスの勢力拡大の契機を確かに読みとらなければならない。
太陽光線は青年の裸体の胸を撫でるのであるが、滑るように流れてゆく絹の如き白色光は青年の裸体を錫のごとくに輝かしむる。しかし錫のイメージは青年の皮膚に固着する事なく、手触りだけを残して遥か彼方に流れ去り、金属質の冷ややかなイメージの残滓として、独身という観念の直喩として鳴り響き出す。ここにおける独り身という語感には揶揄の含みも憐憫の心もなかろう。孤独のもつ高潔さのみが、錫の直喩によって引き出されているのである。先に確認したデュオニソスを青年の姿に重ねれば、崇高さすら取り出すことも可能であろう。ぼくはどうしても掲歌に生涯独身を通して死んだ哲学者ニーチェの姿を見てしまうのだが、さして無理な連想でもあるまい。
塚本邦雄氏の秀歌と呼ばれる歌の質に鑑みれば、この歌に関してはとりたてて賞賛すべき圧倒的技巧の冴えや卓抜無比な措辞があるわけではないのであろうが、たわぶれに夏至に鑑賞する歌としては鬱鬱としていて心地よくはないだろうか。
記:柳元