所収:『自註現代俳句シリーズ・続編3 岸田稚魚集』(俳人協会 1985)
空へ花火が咲いて少女が照らされる。暗闇の中から浮び上がるようである。というありきたりな景として読みながら、それにしても「わが少女」とは強い表現で、エゴイスチックな匂いもあると思っていた。岸田稚魚の自註によると「千葉の長者町は幼きころよく遊びしところなり。折しもの燈籠流しあり。橋上を走るは孫娘なり。昔おもひて感に堪へざりき」駈けている孫娘を見て、自らの幼き日を思い出した。素直に読めば、そうなる。
しかし、どうしても「わが少女」の表現が気になる。「感に堪へざりき」とぼやかしてはあるが、一種の照れのようなものではないか。つまり「わが少女」とは〈わが胸のうちの少女〉である。裏に〈わがものに出来なかった少女〉の意を含む。
ひそかに懸想したものの、成就しなかった少女。その少女も、現在はお婆であろうか、それとも燈籠流しとみるに既に亡くなっているか。どちらにせよ、 花火を見ていて心に浮かぶ、かの少女の面影。溌剌とした少女のままで、胸のうちを駈けている。恋と懐旧は花火とよく合う。
記 平野