美しいデータとさみしいデータに雪 正木ゆう子

所収:「俳句」2020.5

自分が写真を撮るのは専らスマホでだ。ということは自分が主体的に撮った記録は全てデータで残っているのだな、と思った。自分の子どもが成長したとき、「あなたは幼い頃このような姿をしていたのだよ」とグーグルドライブへのアクセス権限を与える日が来るのかもしれない。

あらゆるものがデータで残る時代において、美しさやさみしさも変容したように思う。ベンヤミンの「アウラの喪失」を引くまでもないけれど、複製時代独特の美しさとさみしさというものがあろう。保存もコピーも出来る思い出。ワンタッチで消える思い出。

掲句におけるデータはどんなものなのだろう。「美しいデータ」と「さみしいデータ」という書かれ方からは具体的にうかがい知ることは出来ないけれど、ぼくたちは任意に、おもいおもいにこの余白に当てはまることが許される。

雪は、データと同じように降り積もるものだけれども、降って溶けて一回きりだ。「データに雪」というところは解釈が難しいけれど、まぼろしの雪がデータに降りつのるようなところを想像した。

記:柳元

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