不二曼荼羅図   柳元佑太

自宅から富士山頂までひとりで歩いて俳句を作った記録

プロローグ

 これは自宅(川崎市高津区)から富士山山頂までの道のり、距離にしておよそ130キロ、標高差3760mを踏破を試みた記録である。同行者無しの単独歩行である。御盆期間である8月12日から16日を利用した。

 富士登山自体は平安時代の都良香(みやこのよしか)(834~879)の著した『富士山記』に山頂の詳しい様子があるから平安時代から行われていると考えられているが、噴火活動の著しい活火山であるからしてまだ信仰登山は一般的で無かったようだ。噴火活動が落ち着いてきた室町時代以降、修験者による登山が行われ、江戸時代に富士講という形で大衆に一般化した。今回の私の試みは江戸時代に流行していた富士講を模したものである。当然、現在一般的である五合目からの登山口は使わずに、古くから使われている富士吉田浅間神社を起点とする古道を登っている。

 また、兼ねてより温めていた連作「不二曼荼羅図」の制作も兼ねており、純粋登山のストイシズムや霊山に登らんとするスピリチュアリズムに基づくものというよりは、道中の土地との関係を切り結んで句作する様をメタに記録したいという一種のロードムービー的欲望に従ったものと解していただいて構わない。メンタリティは『水曜どうでしょう』である。

 ちなみにわたしは富士山に憧れたことは一度もない。観光地化され整備され尽くした山、ベタついたナショナリズムの記号に祀りあげられ厚塗された山容。その質量に反比例するような空虚さ。北海道にあるわたしの地元からは大雪山連邦がよく望める。あちらの方が標高は低くとも、よほど清浄、自分の心を寄せるには自然なものだった。上京してからは冬の晴れた日には偶に遠くに姿を見せる富士山の悠容さは、天邪鬼な人間には決して心惹かれるものではない。むしろあの絶対性は、うしろめたいところのある人間の暗い部分を指弾するようなそんな気持ちを齎しやしまいか。

不二の鬱氣海(えーてる)に漏れ首都や冬

 かつて明治政府は、江戸時代のジャポニスムの遺産を利用して富士山をナショナリズムの表象に仕立てた。唱歌「ふじのやま」にあるように富士山は「富士は日本一の山」として、ナショナルシンボルを担ったのだ。かくて近代に富士山とネーションとの結びつきが誕生した。

愛國や中止(えぽけ)の濤を圖像(いこん)とし

 今夏、国立近代美術館にて行われている展示「記憶をひらく 記憶をつむぐ」(2025.7.25-10.26)は芯の通った展示で、いかに富士山がナショナルシンボルとして用いられてきたかも示されていて興味深かった。

 例えば「紀元二千六百年:奉祝国民歌」の第三番では「うしほゆたけきうなばらにさくらとふじのかげおりて」と歌われているし、あるいは横山大観は「紀元二千六百年奉祝記念展覧会作品」として「山に因む十題」のうち「乾坤輝く」と題された作品に富士の図像を描いた。また「大東亜戦皇国婦女皆働之図秋冬の部」でも画面上部にイコン的に富士が配されている。富士は菊花、桜とともに大日本帝国の象徴となっていた。名だたる文学者や画家も戦争に協力し富士を描いたのだ。

Zipanguや記號の不二を弄(もてあそぶ)
逝く四季や楽土に啼かば狂鳥(くるひどり)

  日本人は国威発揚のため富士山を利用したと言えるが、しかし、富士山に利用されているのはむしろ日本人ではないか。戦時中本土の空襲のために飛来したB29は富士山を目印として進路を定め、その後東京地区へと向かうために東へ舵を切ったという。富士山はいわば、敵国を日本に導き入れもしたのである。こうした富士山の「裏切り」にも関わらず、戦後富士山は平和の象徴として記号的意味が読み替えられ、変わらず国民に愛され、日本国土の精神的中心点、ネーションの遠近法を安定・固定させるための消失点としての役割を今も失っていない。富士フイルム、富士そば、不二家、富士通、あらゆるものに富士の名が冠されていれば、銭湯の壁にも富士が描かれている。富士山は巧妙に文化的に生きながらえ、文化的に力を失わない。

 そういう意味において富士は大変に強かであり、記号的怪物であろう。桂信子〈たてよこに富士伸びてゐる夏野かな〉(『樹影』所収、立風書房、1991年)が奥底にグロテスクさを抱えているように思うのは、富士のその記号的な怪物性に触れ得ているからだと思う。富士は戦争がひとたび起こればまたその豊かな山肌を我々に披露、誘惑し、自身を画家に描かせ、あるいは詩人に歌わせるだろう。

いざなへり不二は贅肉(しし)無き容(かたち)みせ

 だからこそ、私の今回の富士登山において、象徴記号としての山肌を実際に踏みしめ、富士山というのが単なる巨大な玄武岩塊であることを、自分の足の裏で確認したいのだ。富士山がただの大地の皺に過ぎないことを明らかにしたいのだ。あるいは、記号としての富士を自分の言語空間の中で飼い慣らしたいのだ。富士を記号から少しでも奪還して、身体的実感に還元したいのだ。はたまた私も富士の記号に奉仕する壮大な虚構の一員になってしまうかもしれぬ。はたしていかに。

わたくしも不二浮世繪の繪空事

1日目(8月12日)川崎市高津区~八王子市

 晴れ。朝5時に家を出る。登山靴やザック、レインウェアなどは揃っている。基本的に富士登山口までの道中は舗装路をゆくことになるからスニーカーの方が歩きやすそうだと思ったが、登山靴を持っていくのは重たすぎると判断して登山靴で街を歩くことにする。この判断がのちのち私を苦しめることになる。

 この日は八王子までの約30キロを歩く。7時間ほどの歩行時間を見込んでおり、休憩を挟んでも15時頃には着く予定である。運動強度と暑さに慣れることがこの日の目標であるが、幸い気温は30度前後と、比較的過ごしやすい予報である。

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 田中裕明に〈ここに岡本太郎のオブジェ三尺寝〉(『櫻姫譚』所収、ふらんす堂、1992年)という句があるが、家の近くにある岡本太郎のオブジェのある川崎市高津区の二子公園がこの旅のスタートである。オブジェは母であるかの子を讃えたもの。対岸には世田谷区の二子玉川が見える。このあたりからでも冬の澄んだ日には富士が遥かに見えることがある。

 しばらく多摩川沿いを歩いていく。早朝河川敷を歩いていると存外多くの人が歩くことを習慣にしていることが分かる。虫が鳴いていて朝夕は秋の気配すらあって、風が吹き草は倒れ、雨後の匂いが強くする。進行方向右手には多摩川が流れ、昨夜の雨にも関わらず堰によって見事に治水に成功している。この流域は古来より何度も洪水の被害に見舞われていて、多摩川との緊張関係がこのような美しい堰として結実にするのは何となく心惹かれるところがある。

草神や川を太らせ昨夜(きぞ)の雨

 土地の記号との格闘において、徒歩という手段が必ずしもその一助になるとは考えないが、とはいえ、自分の中の安易さを相手取る一機会くらいにはなるはずだ。江戸時代に流行した富士詣は、有志グループである講を組織して、徒歩で富士山を目指した。それは観光という眼差しが成立する前の、富士山を霊山とみなすパラダイムのものである。これを模すことで、近代以前の土地感覚、すなわち土地の実感を得ることができるのではないかという淡い期待もある。

 一時間ほど多摩沿線道路を歩けば、登戸、中之島を通り過ぎる。一歩の蓄積による単調な疲労の心地よさ。身体が持っている所与のリズムが炙り出される感じ。このあたりから丹沢山が視界にくっきりと望むことが出来るようになって、自分の進む先が見えているということにモチベーションが上がる。むろん私の目的地は丹沢山の奥にある富士山であるわけだが。しばらく道沿いに進んで、稲田堤、矢野口を通過して、稲城大橋を通って多摩川を渡る。中央道に行き当たるので、ここからは中央道に並走する中央道側道をひたすら西へ進む。多摩川ボートレース場や東京競馬場を横目に進んでゆく。この中央道側道が曲者で、左手の視界が中央道で遮られるために道を歩く喜びが少ない。歩いても歩いても景色が変わらずこのあたりでかなり意気消沈した。それでもかなり忍耐して歩く。府中本町、分倍河原、西府、谷保を過ぎるあたりで中央道側道に別れを告げて、再び多摩川方面へ。

 4時間ほど歩き通しでさすがにつらくなっていたので、1時間ほど河川敷で休む。土手にどかっとザックを下ろして、靴を脱いで、川眺めたり持ってきた文庫本を読むような時間は日常においても必要だと思う。このあたりに来ると多摩川中流である。私は下流の川があまり好きではない。河口近くのあのとろんとした磯まじりの匂いや、動いているのか分からないあの緩慢な弛緩しきった水面はどうも好きにはなれない。その点、中流あたりになると水の流れに張りが出て、清浄な感じがする。

 気づかないふりをしていたが足の皮が水膨れになって剥けていて、現代の人間の皮膚の脆さを思う。例えば西行が、例えば芭蕉が、靴擦れ(草履ずれ?)したりしたろうか。筋肉痛になったろうか。なっていたとしてもテクストには残っていないわけだから、彼らの美学がそう選別させたのだろう。テクストに書かれなかった苦労に思いが至すのは自分が歩いたからこそだ。

 再び歩き出す。行政区画的にはこのあたりは日野市である。このあたりから如実にロードサイド型の景色に変わってゆく。大きな箱型のUNIQLOやデカデカとした看板を掲げた一階が駐車場になっているファミレス等。地元の北海道旭川が典型的なロードサイド型の街なので、親しみを感じる。多摩モノレールも見える。

CoCo壱の今此所讃を偽風土記

季節風(モンスーン)よ直線(せん)が舫へる単一軌道(モノレール)

 八王子市に入る。八王子は太古はメタセコイアの森でありハチオウジゾウと呼ばれる巨象が闊歩していたようだ。象の化石が2001年に北浅川右岸河川敷(清川町の対岸)で発見され、2010年に新種として認定されたという。牙は1.6メートルの長さというからかなりの大きさで、目の前に想像の象の像を立ち上げてみればその威容に怯まざるを得ない。

死象步(ほ)す後世界爺(めたせこいあ)の夢うゝつ

 14時頃、八王子駅に着く。今日は八王子駅宿泊のホテルで予定なので無理をせずに身体を休めることにする。遅めの昼食でラーメンを食べたが塩分が身体に染み渡った。そして足がほぼ棒のようになってきていたので、駅前の商業施設のなかのドラッグストアでサロンパスを購入した。体力的な消耗はさほどないのだが、足や関節にかなり負荷が来ているため、明日以降は足にいかに負担をかけないかが肝要になってくると思った。

 ドラッグストアの支払い時に「桑都ペイ」での支払いが可能という表示を目にし、桑ということは八王子は絹の産地だったのだろうかと思って調べてみるとやはり桑の一大産業であって、絹がよく作られたようだ。八王子周辺で生産された生糸はいったん八王子宿に預けられ横浜に運ばれ、輸出され外貨を獲得するための貴重な輸出品となったらしい。絹の輸出商との直接やりとりをする都合で幕末から明治にかけては外国人商人もわりに八王子を訪れた。当時ヨーロッパでは蚕の病である微粒子病が流行り、ヨーロッパの養蚕産業が壊滅的状況だったことも、日本の養蚕産業においては追い風であったようだ。八王子と横浜を結ぶ道は絹の道と呼ばれている。

すべて蠶(こ)の夢花街も大學も

2日目 8月13日 八王子市~大月市

 曇り。5時30分から歩き始める。今日は八王子市から大月市まで歩く。距離にして53km、およそ12時間歩かねばならない格好だ。ほぼ中央本線に並走するかたちで甲州街道を歩くことになる。大月のもう少し手前の上野原あたりで泊まる手もあるのだが(今思えば確実にこれが正解だった)、富士登山の余力を残すために3日目の負荷を軽くするためには2日目に出来る限り距離を稼いでおきたいという意図があって2日目に最長距離を持ってきた。

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 八王子市を南下してまず町田市を目指す。7時頃に東京家政大学町田キャンパスのあたりを通過する。このあたりは軽い峠になっており、昨日の歩行が足にかなり効いているのを感じる。筋肉痛もあるのだが足首が踏み出すたびに痛む。むろん歩き方の問題もあろう。この程度でオーバーユースになるのが恥ずかしい。騙し騙し歩いていると、痛みがもはや「そういうもの」として、所与のものとして感じられてくる状態になってくる。意識すると痛みが戻るので、頭の中を空っぽにして、歩くことそのものが私であるかのような状態を保つようにして、進む。フレデリック・グロは『歩くという哲学』(谷口亜沙子訳、山と渓谷社、2025年)で次のように述べている。「私が言いたいのは、歩くことによって自分に出会おうとしているわけではないのだ、ということだ。長年の自己疎外から解放されて、自分に出会い直すとか、本当の自分だの、失われたアイデンティティだのを取り戻すだとか、そういった話ではないのだ。歩くことによって、人はむしろ、アイデンティティという概念そのものから抜け出すことができる。」グロの主張するところは一理あるが、とはいえ、身体的疲労からは自由にはなれない。結局のところ私というものはこの身体からは自由になり得ないのだ。それでもコギトなどというものが解体されてゆく感覚に関してはその通りであると思うし、その心地よさは確かにある。

吾步くゆゑに吾無し四方夏野

 町田市を抜けて相模原市に入る。相模原市は選挙をしているようで、至る所に選挙のポスターが貼られていた。余談だが私は旅先に選んだ町が選挙をしている可能性が高い。町の生臭い空気感が少しく感じられてなんとなく好きだ。3時間ほどして津久井湖が見える。生の、飼いならされていない自然が増えてくる。津久井湖は渇水気味と見えて何となく張りがない感じだが、とはいえ巨大な水の塊が見えてくると興奮する。

ダムに浮く徒(あだ)なる芥蜻蛉(あきつ)飛ぶ

 津久井湖は横に長く、永遠に感じられるくらい津久井湖の横を歩く。歩いても歩いても右手に津久井湖があって頭がおかしくなりそうだ。津久井街道はアップダウンも激しい。登りは別に良いのだが、下り坂にかかると足首が爆発する寸前の痛みを訴える。足首だけ火事になっているようである。

足首に不定(アンフォルメル)の火事育つ

 足首が疼きを激烈に主張するから、主体の座に今居座っているのは足首に他ならない。そのほかのものは後景にしりぞき、今此所にあるのは足首それだけであるような錯覚を覚える。もはや私はいない。足首だけがある。足首だけが存在する。座って休んでサロンパスを張り替えたりしながら何とか進む。

肉叢(ししむら)へ神速しかとサロンパス

 11時頃、相模湖が見えてくる。兎にも角にも長めの休憩をとって足首の負荷を減らしたい一心で休憩できる場所まで歩く。途中、相模湖の対岸まで渡し船があるらしく、それを利用するか最後まで迷ったが、なんとか堪える。意地である。ファミリマートでアイスを買って湖畔で食べる。体温が身体の内側から下がっていくのを感じた。昨日のラーメンといい、飽食とはまた別の食べる喜び。靴を脱いで、湖畔に足を伸ばして横になる。あまりにも心地よく30分ほどうとうとした。目覚めると筋肉が固まってしまって、歩くのが容易ではない。引きずるようにして甲州街道を歩いていく。このあたりで右足の登山靴のソールがはがれかけてくる。

 上野原駅を通過したのは15時頃。このあたりから空模様が怪しく小雨が降ったり止んだりを繰り返す。幸い登山に備えてレインウェアは持っていたしザックカバーもあるから装備面での問題は無かったが、体力は消耗する。まして足首は相変わらず疼きやまず、苦悶の表情を浮かべながら歩いた。四方津、梁川、鳥沢、猿橋。このあたりはもうほとんど記憶がない。どう歩いて何を考えていたかはほぼ覚えていない。特に猿橋などは日本三奇橋と呼ばれる名所らしいがもうそういうことに気を配れるような余力はなかった。18時頃に日が暮れても着かず、歩道もない夜道を忘我の状態で進んだ。雨にも降られ、全行程の中でいちばん辛かったのがこの15時から20時頃である。さすがに中止し帰宅したい気持ちに何度もなる。

蛇と化し陰毛の野を歸去來(かへらなむ)

 20時30分ごろ、大槻市街に着く。江戸時代には甲州街道の45ある宿場のうち12宿が現在の大月市内にあったという。富士詣の人々も多く利用していた宿場であるから、富士詣気分になるかと言われるとそんなことはなく、とにかく足首が痛い。それだけである。満身創痍で東横インに辿り着く。風呂に入ってサロンパスを貼って皮のむけた足の裏の消毒をする。しかし何よりも問題なのはやはり足首で、この痛みをどうにかしない限り富士登山も無理であろう。明日朝の足首の状態によっては、徒歩での移動を諦めて電車で富士吉田まで移動する決断が必要である。明日一日歩かず、足首への普段の蓄積を避ければ富士登山への希望も繋がれよう。

3日目(8月13日)大月市~富士吉田市街

 大月市を出て富士吉田市へと向かう。この日は距離にして21km、およそ5時間ほどの歩行の予定であった。朝5時に起き足首の状況を確認したところ、やはり接地しときに鈍痛が走るので、泣く泣く電車移動を選択せざるを得ないと考えた。であるならば始発まで時間もあることだから、もう少し寝ていようと考え、布団に潜り込む。7時半に再び起きて、ホテルの簡単な朝食を食べて、電車を利用するたびに大月駅へ向かう。大月駅へ向かう方角には富士山が見えるはずなのだが、曇っており見えない。富士詣と言いながらまだ富士山を一度も見れておらず、富士の実在を疑い始める。大月駅の改札を抜けようとするとき、ここまでの約80kmを徒歩移動で来たのにここでギブアップすることの悔しさが湧く。踵を返し、富士吉田市へ徒歩で向かうことに決める。こう書くと格好良いが、合理的理性が意地によって鈍麻するというだけのことである。撤退判断が出来ないことによって破滅した指導者は歴史上たくさんいる。

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 大月市から桂川に沿うように南下すると都留市に入る。都留市も大きな市でなかなか脱出させてくれない。途中リニア見学施設が見える。中央道側道に沿いながら歩いていくと都留市街で、さらに進むと都留文科大学が見える。また田原の滝という滝もあって、ここは芭蕉も訪れて句を詠んだようだ。

 このあたりは少し懐かしい。というのも、以前丸田洋渡がこのあたりに住んでいて、2018年だからお互い大学2年生のときの年越しのときに丸田宅に招いてもらった(押しかけた)記憶がある。田原の滝も案内してもらった。この時は年越しうどんを自作して、どろどろの何かが出来上がった記憶がある。あれはなぜ失敗したのだろうか。いま思えば別茹でにせず、汁で煮たのかもしれない。何にせよ良い思い出である。

 登山靴のソールが両足とも剥がれたので、コンビニで布テープを巻いて補強する。登山靴は3年から5年が寿命と言われているが、高校生のときから使用しているものだから寿命は全うしたとはいえよう。しかしアスファルト歩行が登山靴にダメージを与えていたのは間違いない。このあたりからいつのまにか139号は「ふじみち」と名付けれていて、富士急行線に並走しながらただひたすらに歩いていくと、ついに富士吉田市である。そして進行方向に富士がようやくその姿を見せた。曇っていて全容は明らかでないが。

夏大虛(なつぞら)や不二に鈍して麓人(ふもとびと)

 ホテルに14時頃チェックインして、身体を休める。エレベーターが点検のため止まっていたから4階までなんとか上がる。なんだかんだと100キロを歩き通したわけだから、我ながらよく頑張ったと思う。富士山に登頂したい気持ちよりも富士山まで歩けるかどうかの方に興味の重心があったので、この時点でかなり満足している。とまれ、足首の負担がさらに蓄積したことは言うまでもない。ドラッグストアで追加購入したサロンパスを貼って早々に眠る。サロンパスさまさまである。気休めかもしれないが人間には気休めこそ必要なものなのだ。

4日目(8月15日)富士吉田市街~里見平星観荘(6合目)

 4時30分に起床する。カーテンを開ければまだあたりはほの暗いが晴れていて、富士山の全容を初めて望むことができた。ご来光目当てのヘッドライトの列は麓からも望むことができる。身支度をして、北口本宮富士浅間神社を目指す。なんだかんだと富士吉田市も広いので、寿駅最寄りのビジネスホテルからは1時間と少しかかる。

 北口本宮富士浅間神社は古くから富士講の起点となっていた神社である。祭神は富士山を表象する女神である木花咲耶姫。夫からの疑念を晴らすために火の中で出産した木花咲耶姫であるが、その逸話から、富士山を御神体とする浅間神社の浅間大神と融合し、富士山の神となったようである。富士山の神であった浅間大神は、もともと木花咲耶姫とは別だったのだが、木花咲耶姫に飲み込まれた。

神は神呑み込み育つ槍霞(やりがすみ)

 境内に入ると一気に空気が冷んやりとして心地よい。富士浅間神社を右に進むと、冨士講の開祖・角行、中興の祖・村上光清、食行身禄を祀っている祖霊社がある。かつてはこのルートを登るしかなかったが、五合目まで車で行けるようになってからはこのルートは廃れてしまい、ほとんど利用者がいなかった。富士山の世界文化遺産化を受けて、このルートも再興が目論まれ、再整備されているようである。

 遊歩道を歩き始めると、地面がふかふかしている。いかにこれまで歩いていたアスファルトが硬かったかというのを思わされる。足首にも優しく何よりそれが嬉しい。

 ただ、このルートの恐ろしいところは、富士浅間神社が1合目であるわけではないというところだ。富士浅間神社から2時間ほど歩いてようやく「馬返し」と呼ばれる1合目付近に到達する。森林浴のような感じもあって、至る所に熊出没注意と喚起の札が貼られていることを除けば大変快適で楽しかった。富士登山のピーク期にも関わらず馬返しまでは誰ともすれ違わなかったから、やはり富士浅間神社から登る人はかなり少数なのだと思う。

 2時間歩いてようやく1合目、このあとはどうなってしまうのかと不安もありながらであったが、2合目、3合目、4合目、5合目と、それぞれ30分ずつくらいで経過することができる。途中、崩れ朽ち果てた茶屋を幾つも通り過ぎ、改めてこのルートが廃れた道であることを思う。なんだかんだと11時30分には五合目の佐藤小屋に到達する。ここで鍋焼きうどんを食べたのだが信じられないほど美味しかった。コシのないやわやわのうどんではなく、強烈なかみごたえのあるいわゆる吉田うどんである。

 佐藤小屋のすぐ上にある星観荘が今日の宿泊場所である。想定ペースをかなり巻いてしまい昼12時ごろには着いてしまったので、小屋前のベンチにタープを張ってもらって待たせてもらった。朝が早かったこともあってうたたねをした。ゆったりと時間が流れる。この小屋は2325m地点にあって、ちょうどこのあたりを境にして、森林から砂礫が多くなり、いわゆる富士登山の景色となってくる。体力に余力があったので7号目、8合目の山小屋でもよかったかもしれないと思いつつ、小屋が快適だったので文句は言えない。

 ご来光を頂上で見たい気持ちはさほどないので、明日は午前3時くらいから行動を開始し、7合目あたりで見れればよいと思っている。5合目から頂上までは7時間ほどと言われる。日の出を望むためには22時ごろに小屋を出ねばならず、さすがにそこまでの気力はない。夏季は携帯の各キャリアが電波を設置しているため、電波が届くことを良いことに携帯でプロ野球を見て過ごす。山の天気が変わりやすいというのは本当で、雨が降ったり晴れたりを繰り返していた。二段ベットの二段目で寝ていたから、雨音が屋根を打つ音が間近に聞こえる。かなり強い雨だったがそれもそれで心地よかった。

5日目 8月16日 里見平星観荘(6合目)~富士山頂

 午前2時に目が覚めて外に出てみれば晴天、満天の星空である。細かく普段は視認できない細やかな星々も明瞭に見える。風もほぼ無い。6合目はほぼ植物が無くなり、ということは植物を食べる虫や、その虫を食べる鳥もいないから、一切の音がない。無音なのである。自分の呼吸音以外音のしない静かな空間。単独行の喜びである。山小屋で用意してくれた朝飯を持って歩行を始める。

しのゝめの山の鎭まり肉醬(しゝびしほ)

 かつてカントが『実践理性批判』の結びの言葉で「我が上なる星空と、我が内なる道徳法則、我はこの二つに畏敬の念を抱いてやまない」と述べ、道徳法則と併記されるほどのものとしての星空を価値づけていたことに私はむしろ心打たれるわけだが、星空を讃えるカントの気持ちも分かるというものだ。月は半月ながら、これほど月が明るいと思ったことは一度もない。星あかり、月あかりの中を、ヘッドライトを装着して登り始める。

星垂れて靈(たまゆら)の濃き鳥獸(とりけもの)

 山頂でご来光を見る人たちは既に小屋を出発しているから、他の登山もほとんどいない。麓の富士吉田市の灯りも輝いて見える。サン=テグジュペリの『夜間飛行』(仁木麻里訳、光文社古典新約文庫、2010年)冒頭には飛行機から麓の灯りをこう描写する。「村々にはすでに灯火がともされて、その明かりが星座のようにまたたきを交わしている。ファビアンもまた、機体のポジションライトをまたたかせて村々にこたえるのだった。いまや大地は光の呼びかけに満ちている。どの家も海にむかって回転する灯台の灯のように、広大な夜にむかってみずからの星をともしていく。ひとの生を支えるいっさいが、すでに煌めいていた」。灯りひとつひとつに人々の生活をみてとるのはもはや通俗的かもしれないが、そのような感慨も覚えよう。

 本8合目あたりで午前5時となり、日の出を迎える。あいにく日輪をくっきりと見ることが出来なかったが、朝日というのは平地で見ても否が応でも清々しい気持ちになるものだから、夜が明けていくのを多少感じられただけでも感謝せねばならない。感謝をする、いったい何に? 仏に? 神に? 結局のところ、合理性が通じない自然を前にすると形而上学的なものが思考のすきまに入り込むということなのだろうと思う。こういう目的語なき感謝のようなところから形而上学的観念が育っていくのだろう。

 雲海も見ることが出来、日矢が雲海の上部に刺さっている。河口湖や自衛隊の演習地や山中湖なども一望できる。

太日矢の犇(ひし)めきて射す捨聖(すてひぢり)

 午前7時頃には9合目に着く。このあたりからはガスってしまい、そこから先は小雨の中をただひたすらに進んでいく。布テープで補修していた登山靴もさすがに持たず、何度もはがれてしまう。布テープを貼りなおすが、雨で濡れているから粘着力が弱く何度も貼りなおす羽目になる。気温は7度ほどのため、立ち止まるたびに汗が冷えて体温が奪われる。

 午前7時半に登頂する。雨が降っており視界が悪いので、御鉢巡りはせずに下山することにする。山頂に到達したという達成感はさほどなく、自分でも拍子抜けするほどあっけない登頂だった。

地衣類の世や俗界を日照雨(そばへ)越し

 午前10時に5合目の富士スバルラインまで降りてくる。そこからはバスと電車に乗って帰宅した。特に電車は中央本線の特別快速に乗ったこともあって、とんでもない速さで東京まで着いた。こんなものが出来てしまったら、そりゃあパラダイムも変わるだろうと思った。私がへとへとになって歩いた大月から八王子までなんて、うとうとしていたら過ぎ去ってしまった。

エピローグ

 結局のところ、自宅から富士山山頂まで歩いたところで、自分が劇的に変容することもない。成長することもない。インドに行って世界が変わるという軽薄な自己啓発と同様で、距離にして130キロ、標高差3760mを踏破したところで別に何も変わらない。それはそれでむしろ心地よい。残ったのは筋肉痛と疲労骨折気味の足首、壊れた登山靴だけである。

 ただ記号としての、シンボルとしての山肌を踏み尽くしたことは痛快だった。富士山が巨大で平凡な玄武岩塊であることを、単なる著しい起伏たることを足裏で確認したのだ。が、何か身体に根ざした霊性も同時に看取していないと言えば嘘になる。思考のはざまに入りこんでくる形而上学的な感覚をメタに認知しながら歩けたのも面白かった。悟りも開かなければ唯物主義者にも徹しきてない俗人であることが確認出来たのだった。

聳ゆれば俗人登り不二詣

「不二曼荼羅図」70句

不二曼荼羅圖   柳元佑太

不二の鬱氣海(えーてる)に漏れ首都や冬

愛國や中止(えぽけ)の濤を圖像(いこん)とし

Zipanguや記號の不二を弄(もてあそぶ)

逝く四季や樂土に啼かば狂鳥(くるひどり)

夏濤や記號が不二を飼ひ慣らし

いざなへり不二は贅肉(しし)なき容みせ

わたくしも不二浮世繪の繪空事

峙(そばだ)つやソシュールの世をそヾろ神

草神や川を太らせ昨夜(きぞ)の雨

堰爲して水鎖すならひ花河童

生者死者ビル屋上に蹴鞠せり

人間に皮膚の貼り付くすゝきかな

季節風(モンスーン)よ直線(せん)が舫へる單一軌道(モノレール)

郊外やチュッパチャプス舐め戾す

郊外は四角形(はこ)の壓政空廣き

竝木は櫻番號(ノンブル)が團地統ぶ

蠶(こ)の流行り病ひに夏の闌けにけり

すべて蠶(こ)の夢花街も大學

幻はこにかみのるた南門

桃中華永劫回歸してゐたり

CoCo壹の今此所讚を僞風土記

ENEOSやまします鱏(えい)も終日(ひねもす)寢

鱗(うろくづ)や太陽(ひ)は沈むとき最徐行

晴天や荒地に外科が剥き出しに

世の蔦よ次は方舟(ふね)より人類(ひと)排さん

死象步(ほ)す後世界爺(めたせこいあ)の夢うゝつ

遊步者(フラヌール)よ隕石雨ふる郊外を

燕子花逸書匿ふ時空あり

ダムに浮く徒(あだ)なる芥蜻蛉(あきつ)飛ぶ

肉叢(ししむら)へ神速しかとサロンパス

足首に不定(アンフォルメル)の火事育つ

吾が唇(くち)と吾れ接吻す汗のあぢ

神は神呑み込み育つ槍霞(すやりもや)

觀光客(ツーリスト)木花咲耶姫(さくやびめ)踏み殺す哉

メフィスト憑く日本人第一主義(にほんじんふぁうすと)に

Google Map 愚なり久遠の暮れつ方

胎內を老師の訪へる風土記かな

吾步くゆゑに吾無し夏不二に雪

足の上(へ)の胴(トルソ)孤獨ぞ野永遠

火の鳥は今生終へき灰の夏

眞實の蔦のほのほの木花咲耶姫(さくやひめ)

太初(はじめ)に默ありき八月不二默(もだ)す

夏大虛(なつぞら)や不二に鈍して麓人(ふもとびと)

何らかや不二と夏野を隔(わけへだて)

蛇と化し陰毛の野を|歸去來(かへらなむ)

大虛(そら)涼し鳩の屍體(かばね)も九想圖に

夏野永遠淨土への途(と)に滅(き)えむ靈(たま)も

眞夜不二のいたヾきを飛ぶ僧と鱒

マグマの布(ふ)敷く上(へ)踊らん曼荼羅圖

犬儒派に不二は火の淚(なだ)流し給ふ

相模湖に水女(ナンフ)こそ存(い)め月の夏

鑢鱒(やすります)日がな日輪荒れどほし

盜まれしかの鱒の痣忘るべし

日輪に月輪に夏瘦せにけり

道行映畫(ロウドムウビイ)日がな日責めや瓜すヾなり

不二が吾を見詰めしよ以後病みとほす

極樂や氷りつゝ噴く記紀の山

夏の不二曖昧模糊にして明瞭

病むも又たひとの快樂(けらく)や夏の不二

排泄す富士の慈愛を持て餘し

病み拔けば不二こそ噴かめ曼荼羅圖

花癡りて萼(うてな)醒めたり御國の忌

旅籠屋の風の鍋燒饂飩かな

しのゝめの山の鎭まり肉醬(しゝびしほ)

星垂れて靈(たまゆら)の濃き鳥獸(とりけもの)

然(しか)すがに火蜥蜴(サラマンダー)のさゝめ言(ごと)

太日矢の犇(ひし)めきて射す捨聖(すてひぢり)

懷かしの雨の山上他界かな

地衣類の世や俗界を日照雨(そばへ)越し

聳ゆれば俗人登り不二詣

作品7句「脳天壊了」(「俳句」2025.5)をどう書いたか  柳元佑太

旅先で

 旅の目的は幾つかあった。第一に香月泰男の絵を見ること。香月はシベリアの抑留体験を持つ画家である。院生のときに足利の美術館で一度、初期の「兎」という絵を見たのだが、それ以来わりと気に入っている。山口県長門市は彼の出身地で、そこに小規模ながら美術館がある。

 第二に、門司港に行くこと。ここは舞鶴と並んで引き揚げ船の受け入れ拠点でもあった。シベリア抑留及び引き揚げに解像度を上げたいという気持ちがあった。そしてせっかく引き揚げのことを考えるのであれば自身も船旅で、つまり横須賀から新門司までフェリーでの船旅を試みてみようというわけだ(ちなみに21時間かかる)。吉田知子の「ニュージーランド」という短編を読んで以来、私は船旅がかなり好きになっている。

 第三に角島灯台に登ること。「登れる灯台スタンプラリー」なるものへの参加を年初に思い立った。登れる灯台は全国に16か所点在していて、一回の旅で一つの灯台に登るとすると、単純に各地へ16回も旅をする口実が出来る。単純に辺鄙な海辺に行くのも好きだ。

ぼくはこれまで、ひとりで旅をするということに、ひどくこだわってきたように思う。ぼくにとって旅は、なによりもまず、魂が自分を脱して飛翔する時であったから、知っている人といっしょに行くことで、いつでもその人(たち)をとおして、変身する以前の自分につれもどされるということを好まなかった。自分をその過去とつなげてしまう同行者のいないときの方が、魂はとおくまでゆくことができる。 真木悠介「方法としての旅」

 真木がかつてこう述べていたが、一人旅にはそれにしかない良さというのがある。 魂の飛翔というほど格好いいことを言うつもりはないけれど、やはり一人で見知らぬ土地のなかを誰でもない人間として歩くというのは嬉しい。見慣れない植生の花に立ち止まることもできれば、港の野良の猫をつかのま追いかけたりすることも出来る。旅ごころも旅のうれいもほしいままだ。

兵隊シナ語を使って

 北海道出身ということもあって季語というものをそもそも「自分の言葉」と思ったことが一度もなく(北海道において季節は歳時記的運行などしない)、最初からファクションとしてしか接してこなかった。季語というものが持つ帝国主義へのロマンティシズムや、あるいはそもそも俳句それ自体が否応がなく引き寄せてしまってように見えるナショナリズム的美学に(正しい日本語とは何か? 自然な日本語とは何か? 平明でわかりやすい日本語とは何か? そしてそれはだれにとってか?)、いかにからめとられずに、あるいはからめとられながらも抵抗の痕跡をのこすか。そういう意識は常にあったが、はっきり言えばこれは私の惰性から、季語は手放せずにいたことに、意識的に手を入れたかった。

 このとき、手掛かりになるだろうと思って温めていた句材というかアイデアが、兵隊シナ語である。兵隊シナ語とは日中戦争勃発後に日本陸軍将兵の間で使用された、日本語と中国語のクレオール言語である。戦争に伴う臨時言語だったため日本の敗戦と共に使用されなくなったが、戦後に戦争経験者が俗語として使うことがあった。私はこれを吉田知子の短編「脳天壊了(のうてんふぁいら)」にて知った。「脳天壊了」は「頭がいかれちまったな」くらいの意味である。

 兵隊シナ語は、ひとつには正格な日本語、端正な日本語、美しい日本語というイデオロギーを破壊する。また、俳句が俳句である以上どうしても抱え込んでしまうナショナリズムをそもそも明示的に抱え込んでいる言語であるから、ナショナリズムが透明化される恐れがない。こういう見通しがあって、旅の中でなんとか兵隊シナ語を用いた連作を作ろうと考えたのだった。そういうこともあって、旅先には門司や長門など、引き揚げのことを考えうる土地を選んだ。

本を読みつつ旅をする

 旅に出る前には家の本棚から数冊本を抜いていく。吉田健一は旅先で本を読むなんて愚かだみたいなことを述べていたが、私は旅が入れ子構造になる感じがあって、旅先で本を読むのは好きだ。つまり本を読むということがそれ自体ある意味では旅なのであって、旅先で本を読むということはある意味では実際の旅の他に書物の世界の中の旅をするという、二重の旅をするということになる。その二つの旅が交感照応するような本をもっていけたらしめたものだと思っている。

 もちろん、思いのほか時間がとれなかったりして読めないこともままあるし、それはそれでいい。今回は『シベリヤ物語 長谷川四郎傑作短編』(ちくま文庫、2024年)をもっていくことにする。短編というのは実際の旅の隙間に読めるから具合がいい。長谷川四郎は元満州鉄道の社員で、徴兵され、シベリアに抑留されている。

 船は真夜中に横須賀を出た。一週間の勤労に窶した身体は眠りを欲していた。眠いが寝付けない。ツーリストAという部屋はありていに言えば、カプセルホテルのようなねぐらで、横たわる人間をいかに省スペースで運ぶかということが考えられている合理的な作りをしている。価格は一万円と少し。移動費と宿泊費を兼ねていると思えば安い。船が揺れるのと、隣室のいびきで睡りは断続的であるのだがそれもまた一興である。どうせ眠れぬのならと思って本業の仕事を少し進めていたら、いつの間にか眠っていた。

 昼過ぎ、姉妹船とすれ違うとアナウンスがあったから甲板に出てみる。いかにも春の海というのどかな淡い海がとろんと広がっていて、船と船はすれ違いざまに呼応するように汽笛を鳴らし合う。同じ運行会社のバスがすれ違う時、運転手同士が手を挙げて挨拶するのを見るのは何となく好きなのだけれど、船の汽笛はやや過剰演出の感もあって興が削がれる。しかし、そんなことはどうでもよくなるくらい波は穏やかだ。 

 船には露天風呂やサウナもついている。豪奢だ。自衛隊員二人組とサウナで一緒になる。以前大洗‐苫小牧のフェリーを利用したときも自衛隊と乗り合わせたから、自衛隊の移動手段としてフェリーというのは常套なのかもしれない。東京だと自衛隊員の存在をさほど思わないけれど、地方だと自衛隊というのは急に距離が近くなり可視化されるものの一つだ。地元・旭川にも駐屯地があって、国道を自衛隊のトラックがよく通っていた。自衛隊への勧誘のポスターは至るところにあり、親の職業が自衛隊という友人は沢山いた。サウナの自衛隊の二人組は、駐屯地のサウナよりは温度が熱くないとか、帰投するときに時間を巻くためにコンビニに寄らないはずだとか平和な話をしていた。

 霞がかった島々が、昼の潮のうえに現れては流れてゆく。

 船室で読書をする。黒パンと酸っぱいキャベツ、貧しいロシア人農夫たち、抑留された日本兵。ロシア人にも日本兵にも分け隔てなくパンを振る舞うロシア人寡婦の腕のうぶげの金、野菜集積地と鉄道、礼拝堂と名付けられた死体置場。

 本を閉じてデッキに出れば、鮮烈な春の夕焼けが左舷の九州側に沈んでゆく。右舷には愛媛の半島が見えて、半島の山並みに尾根に風車が立ち並んでいる。けざやかな夕日光線が小波を照らしをかける。

門司の安宿で句を書く

 門司港についたのは21時頃。一瞬尻込みしてしまうくらいたいへん奥ゆかしく朽ちたビジネスホテルが今日の宿だ。

 このご時世一泊4000円だが、部屋自体は快適である。船の中の読書でかなり言葉が頭の中に滞留する状態を作り出せたので、ここで集中して句を作ることにする。かつて満州からの引き上げ拠点であった門司という空間の地霊に身を預けつつ、これまで自分の中に蓄積していた植民地、引き揚げ、抑留の言葉を引っ張り出してくる。言葉として相手取りたい語は、スプレッドシートにメモしてある。

 これらの語を没入の足がかりにして、自分を「場」として言葉に明け渡す。到来するものを受け止めたときの身体の起こりが言葉に現れる。ロゴスと結びつく秩序ある言語では無く、過去の人物の実存が食い込んだ混沌として、語を感じながら、それを受け止めて引き込む。参照した言葉と身体が擦れあい、身震いする身体の手応えを、現象界に持ち込む。どこまで自分がそれに介入して俳句という鋳型に押し込むのかはかなり一回性の強い判断だけれど、そのあたりは一方でかなり理知的、構成的に処理をする方だと思う。それでいてなお統御しきれない言葉の混沌があるから、スリリングである。

 過去と現在が混線的に入り混じる句が20句くらいが一気にかけたので、眠る。わたしにおける参照性とはいま現在このようなものであって、あるテクストと意図を持って親愛的な距離を仮構する営みとか、あるいはデータベースを利用した技術至上主義とか、そういうのにはほぼ興味が無くなって久しい。元来、参照というのは意図的なものになり得るはずがなかったのだ。このあたりは「ねじまわし」5号で書いているので、どうぞ。

レンタカーで事故を起こす

 早起きして車を借りて走らせる。俗にいうペーパードライバーだがこういう思い切りはいい方だ。関門海峡を渡って北上、下関市街を抜けて長門・萩の方面へ。途中で観光地化している角島灯台に寄ったのは「登れる灯台スタンプラリー」に参加するためだ。無事印をもらう。風も穏やかな春の海で、灯台は春の日差しをやわらかく照り返している。浜木綿が風にゆれ、鳶の声が遠くから響いていた。

 もう少し車を進めると千畳敷という高原があった。この高原からは日本海が見えるという触れ込みである。車を走らせてみる。だだっ広い駐車場には人っ子ひとりいない。日本語には油断大敵という言葉があるが、流石人口に膾炙しているだけはあって、一定程度真理を言い得ているようだ。縁石に車の前部から突っ込んだ。

 焦りつつ車を降りて車の下部を覗き込めば、バンパーがしっかり破損している。レンタカー会社に言われた通りにふもとの警察署に電話をかけて事故を報告する。パトカーが高原に到着するまでは1時間ほどかかるということだ。

 もうすでにこのとき私は泰然自若と構えはじめていた。杜甫に〈国破れて山河在り〉という詩句があるが今回は〈車破れて山河あり〉といったところで、私がいくら焦ったところでパトカーが早く来るわけではない。春の海はおだやかで、山の木々は芽吹き、春の風が優しく吹き抜けていく。昨日作った句を推敲しつつ、パトカーの到着を待った。表題句「腦天壊了(のーてんふぁいら)藪の齒醫者は天卽地」はうまく説明できないがこのときにスッと出来て、しばらくこの作り方で自分は自分のことを面白がれるなと思った。

 駆けつけてくれた警察官は優しかった。車を借りる際に入れるだけ保険に入っておいたので賠償などはなかった。保険は大航海時代に香辛料貿易への出資リスクを下げるために発明されたらしい。保険は発明であるとこのとき強く思った。

記:柳元

〈ゆるやかなわたしたち〉について おぼえがき   柳元佑太

 この批評は2024年12月28日(土)に開催された第128回現代俳句協会青年部勉強会「名付けから始めよう 平成・令和俳句史」の柳元作成レジュメをほぼそのまま掲載したものです。勉強会では私の他に赤野四羽さん、岩田奎さんがパネリストとして参加し、それぞれ基調発表&クロストークをしています。俳句史の新たな議論の種を作りだせていると幸いです。アーカイブが視聴可能ですので、ぜひお申しこみください!

1.新たな共同体〈ゆるやかなわたしたち〉の勃興

 元号が令和となってから結成された俳句共同体を思いつくままに挙げてみる。「楽園」(堀田季何主宰、2020年-)、「麒麟」(西村麒麟主宰、2022年-)、そして「noi」(神野紗希/野口る理代表、2024年-)。もう少し遡れば「蒼海」(堀本祐樹主宰、2018年-)などもある。

 時代的な分析を試みれば、東日本大震災を契機とした「繋がり」「絆」の称揚や、コロナ禍を背景とした非オンラインでのコミュニケーションの見直しは「人間はリアルな共同体無しでは生きられない」という感覚を醸成した。とはいえ我々は、家父長的な共同体に所属し、個を集団に奉仕させ、個をすり減らしたいわけではない。しかしインターネットでの緩やかなつながりよりはもう少ししっかりと繋がりたい。

 このような共同体回帰のニーズの具体的な現れが、前述の俳句共同体なのではないか。先に断っておくと私はこのうちどの団体にも関わっておらず参与観察できているわけではない。これから言表しようとしていることは、以上の団体に当てはまらない部分の方がむしろ多いと思うから、あくまでもたたき台として使われたし。

 ここでこの現代的な共同体のありようを〈ゆるやかなわたしたち〉と名指してみたい。ゆるやかに〈わたし〉を包摂する〈わたしたち〉。フラットながらもどこかナイーブで、安易で、欺瞞めいていて、それでいてほっとするような〈ゆるやかなわたしたち〉。運動体としての連帯を可能にしながら、ときにわたしを疎外して困惑させる〈ゆるやかなわたしたち〉。私の周りを霧のように取り囲んでいるものはこの〈ゆるやかなわたしたち〉的な共同体であるということには、少なくとも私には身体的実感がともなうように思う。今、この時代に立ち現れている〈ゆるやかなわたしたち〉という共同体のありようを言表してみたい。またこの共同体性は俳句にどのような影響を及ぼしているのか。

2.〈ゆるやかなわたしたち〉の特徴

 代表的な俳句共同体の類型を図にした。以下、この図をもとに説明したい。

 伝統的結社前衛的文学共同体〈ゆるやかなわたしたち〉
中心家父長カリスマわたし(たち)
目的(芸事としての)俳句の上達(文学としての)表現可能性の追及わたしの生の充実
イデオロギー無(「隠れたカリキュラム」として存在)
時間感覚円環的直線的(進歩主義)今・ここ
読みのモード私小説的テクスト論的(「作者の死」)制作における実存の重視(「作者の死」の死)
他者の句に対して批評言語化

 

3-1.中心

 伝統的結社は家父長が中心となって形作られ、ツリー状の構造を持つ。また前衛的文学共同体はカリスマが中心となって形作られ、相互承認が原理であることが多いが、実際はカリスマからの承認によるところも多く主宰や代表が中心となる点においては、伝統的結社とさほど構造が変わらないとみてよい。対して〈ゆるやかなわたしたち〉はその中心は〈わたし(たち)〉である。むろん主宰や代表が存在しており、選があることも多いからして、いっけん主宰や代表が中心の権力構造のように見えるが、〈ゆるやかなわたしたち〉において主宰や代表はあくまでも〈わたし〉のために存在している。

投句欄には選句がありますが、欄の選者は「先生」「師」としてではなく、一冊の雑誌を世に出す立場として、編集権限で句を選びます。 それぞれの「誌友」を「作家」として照らし出す心で選句にあたります。作品発表の場として、方向性の指針を得る羅針盤として、投句欄を生かしてもらえたら幸いです。(「noi」X公式アカウントより)

 共同体は〈わたし〉に対しての絶対性をもたない。あくまでも共同体は「作品発表の場」であり「方向性の指針を得る羅針盤」でしかない。ここにおいてかつてのように、共同体のために〈わたし〉が存在するのではなく、〈わたし〉のために共同体が存在すると言ってよい。しかしこれは自己中心的というわけでなく、むしろ〈わたし〉が複数集まることにより立ち上がる倫理というものが濃厚にある。

3-2.目的

 〈わたし〉が中心となるとおのずから目的も変わってこよう。伝統的結社は「芸事としての俳句の上達」を目的とし、前衛的文学共同体が「文学としての表現可能性の追求」をすることに対して、〈ゆるやかなわたしたち〉においては「わたしの生の充実」が第一義である。とはいえ芸事としての俳句の上達や、文学としての表現可能性が目指されていないわけではない。むしろこれらを媒介として「わたしの生の充実」が目指されている。しかしながら、「わたしの生の充実」をなげうってまで「芸事としての俳句の上達」や「文学としての表現可能性の追求」を行おうとする風潮がもはや無いこともまた事実であろう。かつてのようには一応は文学的ポーズとして表現至上主義的な身振りをとって資本主義外部の価値を目指すことは諦められている。終わらない資本主義の中でいかに「わたしの生の充実」を最大化するかということ、このニーズにこたえたサードプレイス的な共同体であると言えよう。

3-3.イデオロギー

 伝統的結社と前衛的文学共同体は基本的にそれぞれに固有のイデオロギーを持つ。「花鳥諷詠」であるとか「有季定型」であるとか「俳句の周縁の探求」とかを思い浮かべればよい。そのイデオロギーとの思想的合致により共同体が選ばれる。対して〈ゆるやかなわたしたち〉は、語弊を恐れずに言えば、イデオロギーは無い。より正確に述べるのであれば、「イデオロギーが無い」ことをイデオロギーとしている。これは自由、多様性、寛容というリベラルな諸価値と親和性が高い。

野をめぐるように自由に創作に打ち込み語り合う場を作りたく。(「noi」X公式アカウントより)
楽園俳句会は俳句・連句を中心とした詩歌結社です。/俳諧自由の理念に基づき、俳諧普及のため、堀田季何によって2020年3月20日に設立されました。(楽園俳句会HPより)
僕は基本的には有季定型の句を作ります。ただし選句は作品として良ければ採る、というシンプルな選を心掛けます。口語や文語、又は破調や無季であろうともその考えは変わりません。作品の出来が全てですので、それぞれの作句スタイルをこちらが限定することはありません。(麒麟俳句会HPより)

 〈ゆるやかなわたしたち〉は多様な〈わたし〉たちを迎え入れるために、イデオロギーを全面に出さない。しかしながら、ここで本当にイデオロギーが無いかどうかは疑問である。ここで「隠れたカリキュラム(Hidden Curriculum)」という教育社会学の概念を援用したい。これは学校の中でカリキュラム化はされていないものが意図しないままに非公式的に生徒に伝わってしまうということを指す(例えば、教員における主任や管理職のジェンダーが男性ばかりだと「女性は社会的に活躍できない」というメッセージを伝達してしまう)。〈ゆるやかなわたしたち〉も「隠れたカリキュラム」を持つと考えることが出来る。例えば西村麒麟が「作品として良ければ採る」「作品の出来が全て」とどんなに言ったところで、ある価値判断がそこにある以上、そこには依拠しているイデオロギーがある。句会において虚子の句を引用することが多ければ、虚子が「隠れたカリキュラム」となっている。こうした「隠れたカリキュラム」は、イデオロギーが明確になっていて相対化も容易であった以前に比べてやや厄介であると言わざるを得ない。

3-4.時間感覚

 時間感覚も共同体において異なっている。伝統的結社は「円環的時間」、前衛的文学共同体は「直線的時間」である。ここにおいて特筆すべきは前衛的文学共同体における「直線的時間」であって、これは史観としては進歩史観として捉えなおすことが出来る。俳句においては俳句表現史が一歩ずつ着実に前進している(前進してしかるべき)と信じることが可能になるためには、ある程度はこの進歩史観を前提としなければいけない。

今号では「俳句史を進める」という大きな話をしようと思う。/作品固有の価値とは何か、あえて極論すれば、それは唯一無二性ということになる。そして、過去・現在において、存在しなかった句を書き、誰もなし得なかった仕事をする、それこそが俳人の価値と言える。(板倉ケンタ「現代俳句時評 時評ではなく」「俳句」2024.12より)

 板倉が半年間書いていた時評において顕著だったのはこの素朴ともいえる進歩史観である。しかしながらこの進歩史観はどれくらい信じ得るのか。あるいはもっと踏み込めば「俳句史はそもそも進めないといけないものなのか」という板倉時評において所与となっているこの前提はもう少し問われてもよかったはずだ。あるいは板倉が半年間、ときにセンセーショナルな言葉でもってこの進歩史観が共有されていないことを嘆きつづけたこと自体が、すでに進歩史観の時代が終わっているということの証左になるかもしれない。

「鬣」っていうコミュニティのテンションには「俳句表現史というものを見据えて、そこを踏まえつつ、自分なりの新たな一句、まだ見ぬ一句、書かれざる一句というものを立ち上げていくっていうことを、どこまでも追及することは諦めちゃいけないんじゃないか」っていうことがやっぱりどっかにあると思うんですよ。そこを完全に否定するっていうテンションはないと思うんですよね。だけど、私はそこにちょっと……疑問を持ってるんですね。そういう立場はすごく尊重はするんですけど、ただ私はそういうものがだいぶきついなって思いながらずっと過ごしてきていたんですよ。二十代の私は、こんなに前に進めない感じで、でも前に進めないことに対して否定的に捉えたくないっていう気持ちがあったというか。つまり「昨日と同じ今日があって何がいけないのか」と。「俳句は昨日のような今日を書くような形式じゃないのか」と。(外山一機「特集 俳句だった前衛」後編『ねじまわし』第9号より)

 外山一機は、期せずして板倉の言説と真っ向から対立する考えを示している。俳句表現というものを考え抜いてきた前衛的文学共同体の遺産を屈折しつつも引き継いでいる外山が、俳句表現史の更新に関して、諦念に似た感覚をいだいているということは非常に示唆的であろう。「昨日のような今日」というのは「円環的」な時間と言っていいし、俳句表現史を自分の手によっては進めえないことのナイーブな肯定である。もし俳句が「進歩史観」から取りこぼされた者の切実さを託しえない詩形なのだとしたら、つまり「進歩史観」を信じ得る人間によってのみ俳句のメイン・ストリーム(そんなものがいまだあるとして)が形成され、それ以外の人間は周縁で自己慰撫に耽っていればいいというのが俳壇一般の認識になるべきなのだとしたら、それは果たして思い描くべき未来の姿なのだろうか。

俳句には伝統という側面がある。作品固有の唯一無二性を考えた時に、極論、「伝統」自体に価値は無い。誰かがすでにやっていることをなぞっても、その俳人はいなかったことと同じとすら言える。(板倉ケンタ「現代俳句時評 時評ではなく」「俳句」2024.12より)

 様々な事情で「進歩史観」から脱落せざるを得ない製作者がいる。「昨日のような今日」を書かざるを得ない人間がいる。「過去・現在において、存在しなかった句を書き、誰もなし得なかった仕事をする、それこそが俳人の価値」であり「誰かがすでにやっていることをなぞっても、その俳人はいなかったことと同じとすら言える」のだろうか。また、そもそもその唯一無二性を判定するのが特殊な個人であらざるを得ない以上、その特殊な個人の判定によって誰かが「いなかったことと同じ」になる価値体系は危ういと言わざるを得ない。ジャーナリズムがいかに恣意的であるかは言を俟たないし、周縁はいとも容易く消去されるだろう。それに、俳句は50音から17個とるという極めて単純な順列組み合わせで表し得ているという立場に立つなら、そもそも「唯一無二性」などは現在の人類の技術的制約により制限された視野の中だけに立ち現れる、甘美な夢でしかない

 とはいえ、では「進歩史観」を完全に捨て去ることは出来るのか。自分の表現が何か新しいものであることを願わず、それが「史」なるものの前進に寄与せんとすることを願わずに書いていけるのか。このアポリアに対して、〈ゆるやかなわたしたち〉はどのように対処していくのかというのが、目下の興味である。〈ゆるやかなわたしたち〉は(少なくとも正面から)「直線的時間」を共有してはいない。かわりに採用される時間感覚は「今・ここ」である。「今・ここ」における自己実現、「今・ここ」において書くことによって都度再構成され、見る/見られる「わたし」。あるいは「今・ここ」における他者、こういったものの中に豊かさを見出そうとしているように思えるが、どうだろうか。

3-5.読みのモード

 伝統的結社は「私小説的」に、前衛的文学共同体は「テクスト論」的に読解が行われることが多い。特に後者におけるいわゆる「作者の死」は、一見すると不可逆的なパラダイムシフトのように思えた。しかしながら「ゆるやかなわたしたち」においては、この一度死んだはずの作者が復権してきていると言わねばならない。

書き手の反映を基本とするロジックは、その後、テクスト制作における実存の重視として、彼ら(柳元註:保坂和志と佐々木敦)の意図からずれつつも時代の推移としては順当に一般化したと考えられます。具体的には、「日記」や「随筆」、「私小説」や「生活史(ライフヒストリー)」の流行、そして社会的主題の表出を書き手の実存との関係(の有無)のもとで評価する制作/批評観の主流化といったかたちで。(山本浩貴『新たな距離』フィルムアート社、2024)

 書かれた言葉は、その時代性やその言葉を取り囲む権力勾配の中でしか厳密には理解不可能であるし、特に多様な「わたし」の在り方を認めようとすればするほど、それらを一つの普遍的な言語としてみなすのではなく、個々の肉体や精神から立ち上がる一回性のある発話としてみなす方が適切になってくる。

3-6.他者の句に対して

 伝統的結社は「選」をし、前衛的文学共同体は「批評」をする。昨今はこの「批評」の不在が叫ばれて久しい。これは〈ゆるやかなわたしたち〉において採用されるシステムが「批評」ではなく「言語化」だからであると考える。「批評」から「言語化」へと、緩やかにシステムが変化していると思われる。

 「言語化」の称揚は俳壇に限らず一般的な潮流とみえて、書籍タイトルに「言語化」を含む図書の出版件数を調べてみると、2016年から2020年では215件だったのに対して、2021年から2025年では421件もの図書が出版されており、ほぼ倍増している(国立国会図書館サーチ、2025年2月10日閲覧)。自己啓発本の分野でも「言語化」は大きな脚光を浴びていて、社会自体が「言語化」に対して肯定的な価値づけを与えているといってよい。では「批評」と「言語化」はどう違うのだろうか。

批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか(小林秀雄『様々なる意匠』1929年)

 「批評」というものが小林秀雄の言う通りのものだとすれば、「批評」は「己れの夢(=自己)」が起点である。「批評」は自己と他者が交わるため否応がなく傷つくときがある。そういうことを覚悟のうえで止揚しあう場としてかつて「批評」というものはあった。「己れの夢」と「他者の夢」との差分を認めながらも「己れの夢」として語る。そこにまず間違いなくマッチョな価値観があったことは否めないが、それが作品の水準を担保する機能があったこともまた事実だろう。

 他方で、「言語化」は他者の作品そのものが起点であって、すでにそこに客体として存在しているものを、所与の前提としたうえで、いかに語り損なわずに語り起こすかかというゲームである。だから「言語化」では、「上手に読む」ということは起り得ても、相手の作品それ自体は所与の前提だから、大きな枠組みでの価値観の対立の止揚などは起らない。「言語化」は建前としてそこにすでにあるものを明確にするだけであって、語弊を恐れずに言えば創作的な行為ではない。相手の作品それ自体を所与の前提として受け入れるという態度を「優しさ」とか「誠実さ」とかと呼ぶかどうかは私は判断しかねるが、踏み込んではいけない自己と他者の境界が規定されて、より他者倫理が強くなったのは事実だろう。一例として、私は「俳句甲子園」に18回大会から今まで関わってきていてその変化を定点的に観測しているが、俳句甲子園は明らかによしとされる価値観が「言語化」になったと思う。

 以上、ざっと〈ゆるやかなわたしたち〉についてのおぼえがきを示した。

気球乗りたち  平野皓大

それは早朝というより、未明と呼ぶべきだろう。坂の上からのぞめるはずの松島湾も暗色に包まれ、近くのデイサービスセンターも閑散としていた。われわれのほかに起きている人の気配もなく、冷たい風が吹いている……。日が出ていても寒さののこる時期だというのにわれわれ四人、こんなに早起きをして宿を出たのは熱気球のためである。

熱気球に乗って、地上を離れ、海にうかぶ島々を一望する。旅程というほどの決まりきったものを持たないわれわれにとって、熱気球は唯一の旅程だった。気球でバカ早朝に起きて朝日を見るのでそのつもりでよろしく。旅行の一週間前にや氏から送られたラインは日々の生活に疲れたわれわれに活力を与えた。や氏にしてもふだんの口調とちがう強引さがあり、松島旅行をより充実したものにする妙案に自ら昂ぶっているようでもあった。

滾る、とよ氏がいち早く反応し、気球が頭から離れないとま氏がツイートした。

僕にとっても、気球はあこがれだった。祖父からカッパドキアに行こうと誘われたのは五六年前のことだ。今生の思い出に孫と旅をする。祖父の目的はハッキリとしていたが、僕としては長時間のフライトによる祖父の疲労と、こちら側の疲労を考えるとあまり乗り気になれなかった。

しかし勝手なもので、コロナウイルスが流行し本格的にカッパドキア行きが白紙になると惜しくなり、多少の申し訳なさとともにカッパドキアの黄褐色の大地と、そこに浮かぶ熱気球のことを考えるようになった。

熱気球の旅は大地にその小さな影を落とすところからはじまるだろう。家々の窓から差し伸べられた手は旗のようにひらめき、気球乗りたちは地上からでも視認できるように頭のうえで大きく手をふるにちがいない。岩を刳りぬいてつくったという家も、そこに住む人々もみるみるうちに小さくなり、地上の雑音は消え、カンカンと大地に照りつけていた太陽が、気球乗りの目の前で輝く。

そんな情景を僕は思い浮かべ、松島の熱気球を楽しみにしていた。
本当はまだ眠っていたい時間から外に出て、街灯しか頼るところもなく、風を避けるところもない道を歩いて来られたのも、気球というイメージの力に励まされたからだ。

だけど、実物の気球は薄っぺらなもので、コンクリート舗装の地面に広げられている球皮を前にして、こんなものに命を預けて良いものか不安になった。みずから提案したにもかかわらず高いところが怖いと言うや氏も、中空で泣くはじめての体験と軽くおどけていたよ氏も、寒さだけではない震えが口々に漏れはじめていた。

熱気球は、大型送風機で球皮をふくらませ、バーナーの炎の力で球皮の中の大気をあたためて浮いたり沈んだりする。

風任せに飛んでいるように見えて、風向きは高度によってちがっているんです。左右に動かしたいときは風の層を読んで、球皮の中の温度を調節しています。慣れれば、数センチ単位で自在にあやつることもできます。

ヤンヤンと名乗ったお兄さんの説明は、すこし理屈ぽかった。もっとロマンあふれる気球譚を話してくれれば心も温まっただろう。

約五十メートル四方の小さな広場がわれわれ気球乗りたちの舞台だった。予想と反した狭さではあったが、平生目にしない機材のならびに大がかりな実験がはじまるようでワクワクはした。デッカい昆虫や恐竜をかっこいいと思うのと同じ熱量で、送風機やバーナーの大きさ、そして風を溜めて起き上がりかけた気球にワクワクするのだ。

ヤンヤンの説明はクイズを交えながら、軽快に進んでいった。さて問題です、世界一大きい気球には何人まで乗れるでしょう・・・・・・8、はい、そこのお兄さん、10、15、5、なんだかオークションみたいになってきましたねぇ。

子ども向けのシナリオなのだろうから子ども相手に徹しても良いだろうに、ヤンヤンはシャイなのか、それとも単に子どもが苦手なのか、こけた頬にシワを寄せ、矢鱈とわれわれのほうを見た。テーマパークのキャストのような体に染みついた客向けの仕草はなく、端々に人間らしさを感じる好ましい振る舞いだった。

今日の風はどうやら微妙に強いらしい。気球はふくらんでも風に圧せられ、球皮に溜まったはずの空気がにげてしまう。ヤンヤンの背後を振りかえる回数も増えていった。子どもたちはわれわれと同じく気球を夢見て朝早く起き、この場にいるはずだった。気球に乗りたいという願いも自然の前では無力で、とうとう中断、様子見となり、親に連れられて車の中へ戻っていった。

かわいそうに。

と言ったのは、ま氏とよ氏のどちらだっただろう。

かわいそうに、このまま中止になったら耐えられないよな。自分が小学生だったらきっと泣いてる。

とどちらかが言うと、

本当に。きっとクラスメイトに、週末、熱気球に乗ることを自慢してきただろうに。

とどちらかが応えた。

正直に言うと、このあたりのことはあまりの寒さに耐えるばかりで記憶から抜け落ちている。それでも、鼻水を垂らしながら自分たちのことではなく子どもたちのことを心配する姿勢は、われわれの人柄の良さをしめすエピソードとして、書かざるをえない。

ありがたいことに、スタッフの方がピンクのうさぎやダルメシアンの描かれた可愛らしい毛布を貸してくれて、それを脚なり首なりに巻くことで少しは寒さが和らいだ。早く早くと僕は体を揺すり、ベンチの上で直向きに待った。

送風機の停止と、諦めることのない再開。何度もくり返されるその光景は、中止という結末におわる可能性が高そうに見えただけに愛おしかった。

中止じゃないだろうかと僕は言った。そう望む気持ちもどこかにあった。気球という天気商売の、風や雨に振り回されてしまうどうしようもなさが気球というものの本質のようにも思え、それが見られただけで十分じゃないか、と言いたかった。

中止だろう、と僕はもう一度言った。スタッフの方々もどうしようもないことが分かっていて、それでも素っ気なく中止を宣言するとバツが悪いから頑張っているのではないだろうかと、寒さで殺伐とした心の中で考えた。

限界だった。足の指先が痛み始めていた。気球から見るはずの朝日によって、東側の空は明るく染まっていた。帰ろうと思った。

写真撮りまーす、と呼びかける声が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。

松島に来てからというもの、頭のあがらないことばかりである。遅刻はするし、誰よりもはやくくたびれてしまうし。風に流されるままふらふらと浮いている熱気球はまるで、気の良い帚の面々みたいだなどと、旅の準備をしながら思いをはせていたものだが、それは僕がとりわけのんきだから、彼らのこともひとくくりにのんびり生きていると考えてしまうのだろう。

彼らはこまやかに気を回し、僕などにはとうていうかがい知ることのできない苦労をかさね、みずからの内と外の間を生きている。こんな言い方をすると、彼らのことをキチンとした人であると主張しているようで、僕としては不服だし、もちろんそんなエラい人々ではないのは確かである。

月が出ている、良い匂いがする、など、ふとしたことに気がつき、時には、足もとがぶよぶよすると、その場で跳ねて土ぼこりを上げるよ氏にしても、足場の悪いテトラポットをひょいひょいと渡り、冷めているようでいながら興味のおもむくまま進んでいくま氏にしても、広島の牡蠣はホタテの外殻を使って養殖をしているという話に、それはホタテも怒るでしょとよく分からないことを言うや氏にしても。

彼らにはむじゃきさと、好奇心があって、そのあたたかな空気に支えられながら僕は今回の松島旅行を乗り切れた気がする。

きっと僕のことなので、次も遅刻をするだろうがそれでも良ければ、次回はみんなでカッパドキアに行ってはくれないかと思う、それくらい、気球は楽しかった。

どーですかぁ、とヤンヤンは言った。

その呼びかけに応えたものは誰もいない。知らないうちに脚幅が開いて、膝がまがり、恐怖に堪える姿勢をとっていた。今にも抜けてしまいそうな腰にムチを打ち、立っているのがやっとだった。

地上からはスッカリ離れているのにスニーカーの中で指を曲げ、地面にしがみつこうとしているのだから思えば滑稽だ。

風のせいで気球はやはり揺れ、それでも高度はまだなかばといったあたりでゴンドラから垂れ下がっているロープもたわんでいた。それじゃあ、どんどん昇っていきましょー。操縦士ヤンヤンのかけ声とともに、バーナーから巨大な炎が噴出される轟音が耳もとで響いた。

しばらくしてバーナーの音が消えた。まわりの景色が明るく見えると、どーですかぁと、またもヤンヤンがいきいきと言う。どうもこうもない、ひろがる海とそこに浮かぶ島々、見たかった風景が広がっている。

気球で昇ってみて、地上で見えていた島のさらにうしろに島が連なり、そのずっと向こうにも島があり、白くぼやけるほど奥までつづいていることを知った。風を受け、ぼーっとしていると、ウミネコが二三羽、羽の裏側を見せつけるように海と空のあいだの広いところを、輪を描いて飛んだ。

時間にして、十分にも満たないくらいだろう。球皮の中の空気が冷えるにまかせ、ゆらゆらと地上に戻ってくるまで、われわれは気球から見わたす松島を堪能した。

怖かった。

ああ、怖かった。

無事に帰ってこられた解放感からハイテンションになり、示しあわせたように怖かったと言い合う中で、仕事の関係で高いところに登ることも慣れているま氏もまた、怖かったと言う。

スマホ落とされたらどうしようかとおもった。そんな補償はないだろうに・・・・・・

どうも操縦士ヤンヤンは、怖がっているわれわれが面白いらしく、こちらが慌てるような無茶を平気でやってのけた。ま氏のスマホを奪い取ると半身をゴンドラからのけぞり、写真を撮ったのもその一つだ。

宿に帰ると、ま氏が写真を共有した。

気球乗りとなったわれわれは青みがかって広く見える空の手前で疲れ切った笑顔を浮かべていた。

岡田一実『光聴』を読む

柳元佑太

『光聴』(素粒社、2021)は岡田一実氏の第4句集である。氏の第3句集『記憶における沼とその他の在処』(青磁社、2018)が筆者のフェイバリットであったから当然本句集の期待値も高く、そして実際の読後の印象も、句集の構成や志向するものが変遷している(後書にもあるように本句集は編年体をとり、句群の背後に句を記し纏め上げた作者の虚像が結ぶようにセッティングされている。これは第3句集のテクスト論的な潔癖さとは異なっている)けれど、期待を裏切らないものであったことは最初に記しておきたい。装丁も素敵だった

そしてひとまず、本稿を書くにあたってのスタンスを示しておこうと思う。これまでの句歌集鑑賞で取り上げてきたものは現代で短詩を書くにあたっては古典と言えるものばかりで、刊行されたばかりの句歌集は取り上げてこなかった。というのも、刊行されたばかりの句集というのはジャーナリズムの海に出て帆を立てたばかりの船であって、すでに古典となり押しも押されぬ立ち位置を築いた句歌集とは別の批評の手続きが必要である。古典に関しては適当な戯言ばかり言っていても、失われるものはぼく及び帚の面々の信頼のみであるからまあどうてことないのだけれども、こちらはそうはいかぬ。聴くところによると以後読書会も控えているようだし、持ち上げるばかりでなくて少なくともその試金石となるようなことくらい書かねば格好がつかぬだろうし著者にも句集にも失礼であろう。とはいえつらつらと句から感じたことを書き連ねることしか出来ないから、一読者の愚なる一感想であること、諸氏は心に留めおかれたい。

さて、本句集で惹かれた句をまず幾つかあげてみると、冒頭の

疎に椿咲かせて暗き木なりけり

から始まって、

牡丹の蕊灼然と枯れにけり
海風や葵の揺れが地に届き
金魚田に空映る日の金魚かな
世の雨の縦にすぢなす雨月かな
冷酒やあはあは昨日【きぞ】の水平線

など、比較的集中においては端正(で程良く修辞として華美な)句群を筆者は好んでいる。動植物のいわゆる俳句的な素材にも心を寄せ、伝統的な価値との連帯も過度に厭うことなく、定型を冷やかに充たすような構築的な書きぶりから受ける印象は、前句集『記憶における沼とその他の在処』から引き継がれているように思う。おそらく岡田氏にとってもこのような文体はまだ書き尽くしていない、擦りきっていないという思いがあるのだろう。筆者にとっても、自分がこう言った書きぶりに対して反発することなくむしろ歓待の心をもって頁を繰ることが出来るのだなということに気づけた。

またトリビアルな書き振りも、岡田氏が変わらず磨き上げてきている技であって、以下幾つか引用するけれども、この精度、技術には舌を巻くしかないだろう。

熊蜂の花掴み花揺らし吸ふ
顔うづめ蒲公英を虻歩きけり
触覚で葉に触れ蟻の歩み止む
水馬の水輪の芯を捨て進む
向日葵の芯つぶだちて盛り上がる
熊ん蜂釣船草に頭を深く

「よく見たね」「じっと観察したね」であるとかなんとか、言葉の問題であるものを視覚の問題であるかのように転倒した評をしてしまいそうになる。流石である。

ただ、これは難癖だと思って聴き流していただいて構わないのだけれども、素材の拡張を伴わないあくまでも花鳥風詠的な素材を用いたトリビアルな書きぶりは、もうある種のレトリックに成り下がっているのではないか(もちろん全てはレトリックであるのだけれども)。もう少し具体的に言えば、これまでは偏執的な眼差しのみがもたらし得たトリビアルさは、昭和30年世代以降、具体的な名前をあげれば岸本尚毅氏や小澤實氏以降、まなざし抜きの言語的操作のみで表象可能になっていると思うのである。この主張をぼくは散々しているのだけれど、わりに顰蹙を買うばかりであまり共感された試しがない。岸本氏や小澤氏が(むしろそれゆえに)眼差や実感への回帰を説いているから、入り組んでいるのかもしれない。引用した句に沿って具体的に述べるならば、例えば「虫」と「花」を季重なり的に一句の中で処理すると、季語が季語性を喪失する代わりに「ものとしての側面」をあらわにするというメカニズムがあって(これを指摘したのは小川軽舟氏である)、これがコード化され技法として遺産化しているのだ、というのが筆者の主張である。岡田氏はこのコードを利用している。

であるから、こういうトリビアルな写生句は、岡田氏の技術の保証にはなっても、本質的な魅力にはなり得ないと思う(TOEFL何点とか英検何級などの資格がその人の技術を保証しはしても、人間的魅力を表す指標ではなかろう、変な喩だが)。しかしこれはもちろん誹りではなくて、TOEFLや英検が、しかし何がしかを指し示すように(たくさん勉強したんだろうな、とか)、そういう意味で岡田氏はここで信頼を稼いでいるのだ、と見ることは出来るし、実際のところこういう句がもたらしてくれる安心感が他の挑戦的な句づくりを土台で支えているのである。

また本句集は、生活や人事などに対する醒めた眼差しを機知で練り上げたような、ユーモラスな句も存外多く、こういった傾向の句を大いに楽しんだ。この傾向は有る程度文体が抑制的であればあるほどこちらとしては乗れるように思えて、

ハイターに色抜けにけり風呂の黴
話しあふ忘年会を思ひ出し
吾がキャンプ他家のキャンプと関はらず
興湧かぬまま大蟻の歩を眺む

くらいのドライでシニカルな文体で書かれるとつい誘われて笑ってしまう。十分に一般性を獲得していると思うし、その中でも

可笑しいと思ふそれから初笑

はかなり好きで、笑いという現象が実はかなり社会的なコードに依存していて、身体の奥底打ち震え、込み上げてくるような肉体的な笑いよりも先行して、観念としての笑いのような、社会に規定されている笑いのようなものが実はあって、それが先行して感覚される感じは体感的に納得する。この微妙な感覚を、言葉で表象し得たというところにも、驚く。もちろん、このラインを行き過ぎると、つまりある種の面白さが文体の抑制を超えてしまっていると、やや大味にも思えるというか、

句を残すため中断の姫始
タレ甘すぎて白魚のあぢ不明
汗染むる衣脱ぎにくし脱ぎ涼し
霊魂に信うすし盆菓子は欲し

くらいになると、面白すぎてやや興が醒める感も少しだけ、ある。

それから、これは書き方が難しいのだけれども誠実な感想として記すと、「幻聴譚」という詞書が伏された六句(もっと言えば、集名『光聴』、あるいは編年体という私性が前傾化する編み方が印象づくるようなありよう)に関しては、ぼくは少し乗り切れていないと思う。あくまで一般論として、私性を物語化して背後に忍ばせたとき、語る自分と語られる自分に乖離が生まれざるを得ないために、自己演出の匂いを消し去ることは困難であると思うのだけれども、ぼくはこの匂いに関して過度に敏感であるというか、気にしすぎというか、素直に乗れたことが殆どない。といっても、石田波郷や折笠美秋、あるいは晩年の田中裕明、歌人なら笹井宏之らですら、何らかの読み難さ(テクストの読み難さというよりも、そのテクストをいかに消費し得るのかという自分の倫理的態度を常に問われ続ける)を感じつつ読まざるを得ないのだから、これは岡田氏の責という訳ではなくて、むしろ自分の病理であると思う。ただやはり、句としての強度を志向するときには「幻聴譚」はやや直截的でありすぎたのではないかな、と思う。

けれども、本句集の構成が、作者というのは自分が所属する時代規範や社会、環境、自分の身体や精神から間逃れることが不可能であり、自分は時代精神のペンと紙であるということに向き合った結果であるということを重んじるとき、おのずから同時代の歴史の体重がのる句というのが稀に書かれると思っていて、その充実を集中に見れるのは幸福なことだと思う。参照性や構築的がどうしても呼び起こしてしまう虚無を、それらは追い払う。例えば、

疎に遊ぶ卯月の海に脛【はぎ】濡らし

のような掲句をCOVID-19と結びつけることは不必要な読みの手続かもしれないけれども、社会詠がリリカルさの質を高く保ちながら詠まれるということが困難であることを思えば、掲句が密集を避けながら浜辺にて戯れる卯月のこころもちに心を寄せない訳にはいかないし、

コスモスの影朦と落ち揺れてゐず

のような、朦朧とした感覚(じっさい、これは幻聴を描いた句群や、偏執的に向日葵を描写する連作が、丹念に時間をかけて準備してきた実に手の込んだ感覚である!)がコスモスの花影に仮託されたとき、最も素晴らしいかたちで、『光聴』が志向するものが立ち現れているように、ぼくには思われたし、引用していないだけで、こういう句が集中にはたくさんあるので、ぜひ手に取っていただきたく思っています。

前川佐美雄『植物祭』を読む

柳元佑太

前川佐美雄(1903-1990)の第一歌集『植物祭』(1930)は、短歌に流入したモダニズムを確認出来て非常に興味深い。「幻視」の歌人といえば、葛原妙子や山中智恵子、水原紫苑など主に戦後の歌人が思い浮かぶ訳だけれども、元祖・幻視の歌人なる俗な呼称を冠することが許されるならば、それは戦間期における前川佐美雄だと言えるのではないか(このことは、むしろ戦後の反写実的な歌人、葛原たちが行ったことは、第二次世界大戦によって中断されたモダニズムのやり直しの側面もあったのではないかという見取り図を提供してくれるように思うけれども、ひとまず本稿では触れないでおく)。
さて、

胸のうちいちど空にしてあの青き水仙の葉をつめこみてみたし

このように、掲歌において作中の主体が、胸のうちに青き水仙の葉を詰め込んでみたいとたわぶれにのたまうのだけれども、たしかにこのような発想にはシュルレアリスムダダと通ずるような耽美とナンセンスな感覚があるように思える。色彩の感覚の豊かさは、および身体感覚との清らかな接着は、たとえば俳句においては渡辺白泉や富澤赤黄男などの新興俳句の俳人にもみられたし、短詩においてモダニズムを志向するときにはまず語彙から刷新されるのだろうなという検討がつく。言葉の表層に現れる語彙に着目すれば、佐美雄の歌とモダニズムの共通項は割合たくさん拾うことが出来るように思える。例えば

子供にてありしころより夜なか起き鏡のなかを見にゆきにけり

こんな世間がしづまつた真夜なかにわれひとり鏡に顔うつし見る

この歌のように鏡のような詩的素材を積極的に取り入れ、手ごろな形での異界への扉を繋ぎ止めたりもするし、

なにゆゑに室【へや】は四角でならぬかときちがひのやうに室を見まはす

室の隅に身をにじり寄せて見てをれば住みなれし室ながら変つた眺めなり

のように、偏執的に室内をながめ、見廻してみたりもしていて、このような感覚の鋭敏がもたらす過剰さや、それにともなう異化効果などは、すでに充分、われわれもよく見知ったモダニズムであるように思う。一方で、もちろんわれわれは佐美雄がモダニズムを歌壇史に残るかたちで達成したこと(というか、それにともなう旧来的な価値観との格闘)には敬意を評するけれども、これらからは同時代的なモダニズムの潮流の勢いを感じこそすれ、歌や修辞そのものの充実ではないように思う。言葉は悪いけれども、モダニズムにかぶれてさえいれば、そこまでの短歌形式との格闘なしに書かれ得るようなある種のインスタントさを感じるというか、言ってしまえばモダニズムし過ぎているように感じるのだ(とはいえ彼が短歌におけるモダニズムのファーストペンギン世代なのだから、それは当然というか、後世に生きるものが容易に推し量れるようなものではないのだが)。

ぼくがそういう側面よりも面白いと思ったのは、厭世的だったり露悪的だったりするのだけれども、そのことを直截歌にしてしまうことで歌としては格調や深みが失われてしまい、しかしだからこそ切実な感じがする感じの歌である。

何もかも滅茶滅茶になつてしまひなばあるひはむしろ安らかならむ

君などに踏み台にされてたまるかと皮肉な笑みをたたへてかへる

街をゆくひとを引き倒してみたくなる美くしい心だ大事にしとけ

わけの分らぬ想ひがいつぱい湧いて来てしまひに自分をぶん殴りたし

土の暗さで出来上がつた我だと思ふときああ今日の空の落つこつてくれ

人間のまごころなんてそのへんの魚のあたまにもあたらぬらしき

馬鹿馬鹿しいと退けるのは簡単であるのだろうけれども、おそらくはプロレタリア短歌からの影響があるのか(実際、佐美雄は「プロレタリア歌人同盟」とも関わりがある)、生々しい肉声というものがうっすらと織り込まれているようにも思われて、口語と文語が混ざり合う文体に読んでいくうちにどんどん惹かれてゆく。ここに自己戯画や誇張はあってもインスタントさはなくて、それが簡単そうに書かれたように見えるのなら、生活表象がある種の簡単さを要求するというだけであろう。

ふうわりと空にながれて行くやうな心になつて死ぬのかとおもふ

誰もほめて呉れさうになき自殺なんて無論決してするつもりなき

なども妙に味があって、何ということのない歌なのだけれども、こういう歌の方が、都市やモダニズムのよるべなさのようなものが出ているのではないだろうか。蝶や鏡や電車などの素材より、詠みぶりにモダニズムが織り込まれている方が、ぼくは一等良いと思う。それから文体という面でぜひ指摘しなければいけないのは、

五月の野からかへりてわれ留守のわがいえを見てるまつたく留守なり

などの「見てる」という表現にみられるような「い抜き言葉」であろう。現代日本語の規範に照らして歌を詠もうとするとき相当な逸脱というか、こういうブロークンさはニューウェーブの世代が達成したことだと思っていたので非常に驚いた。これもプロレタリア短歌の口語からの輸入なのだろうか。プロレタリア短歌は(プロレタリア俳句もそうだが)、内容か表現かという二項対立においては内容を重んじたと捕らえられがちだけれども、むしろ表現にこそ旨味があるのではないかと思ったりもする。この遺産がなければ達成されなかったものというのは実は沢山あったはずだ。


最後に、最も好きだった三首を引いて筆を置きたい。

かなしみはつひに遠くにひとすぢの水をながしてうすれて行けり

われわれは互に魂を持つてゐて好きな音楽をたのしんでゐる

あるべきところにちやんとある家具は動かしがたくなつて見つめる

田中裕明『花間一壺』を読む

柳元佑太

田中裕明の第2句集『花間一壺』(牧羊社、1985)という句集はぼくのバイブルである。自分の来し方を照らしてきた書物をあげよと問われればあやまたずこれを挙げるし、そのような書物を自分が比較的若いうちに一冊持てたということがたまらなく嬉しい。『花間一壺』からスタートし、『花間一壺』を信じ(或いは疑うことで)ぼくは句を書いてきたといっても過言ではないから、『花間一壺』を読み直すということは、自分の変化を見ることに他ならない。

とはいえ自分語りをしてもせんないので、『花間一壺』の話をしよう。これは1983年の角川俳句賞受賞作を含む、おおよそ20歳から26歳までの句が収められた田中裕明の第2句集である。集名は李白の「月下独酌」という五言詩の1行目、「花間一壺酒」から採られている。

花間一壺酒(花間一壺の酒、)
独酌無相親(独り酌んで相親しむ無し。)
挙杯邀明月(杯を挙げて明月を邀え、)
対影成三人(影に対して三人となる。)
月既不解飲(月既に飲むを解せず、)
影徒随我身(影徒らに我が身に随う。)
暫伴月将影(暫く月と影とを伴い、)
行楽須及春(行楽須らく春に及ぶべし。)
我歌月徘徊(我歌えば月徘徊し、)
我舞影零乱(我舞えば影零乱す。)
醒時同交歓(醒むる時は同に交歓し、)
酔後各分散(酔うて後は各々分散す。)
永結無情遊(永く無情の遊を結び、)
相期邈雲漢(相期す邈かなる雲漢に。)

漢詩の内容は、花の間で壺酒を抱き、ひとり呑まんというもので、付き合ってくれるものは自分の影法師と月のみ、しかしそれもまた良いだろう、というものである(疫病下の現在の模範的飲酒態度と言わざるを得ない)。漢詩における花は桜ではないと習ったことがあるけれども、それに従えばここにおける花は、梅か桃かあるいは李かといったところだろう。とにかく夜の花を眺めながらひとりでの酒盛りである。この集名は、素晴らしく裕明に似つかわしいと思う。

というのも、この句集に収められている一句一句それぞれに分有量の差はあれ、どこか孤独のおもかげがあって(それは芭蕉や西行に似た旅人だったり、ひとり美術館で絵を鑑賞する人だったりするのだが)、その孤独のかけらをきちんと集名で纏めあげて、明るく肯定してくれている。だから、素晴らしいのである。しかしそれは決して俗世を捨てる高踏的な生き方だったり一匹狼的な生き方だったりではなくて、友人や恋人と生活するなかでこそ際立つような、いわば生きていくことそのものの孤独、明るい孤独を描き出すことへの志向である。そしてここに、dilettante的な、古典への耽溺という少しくの調味料が加わって、『花間一壺』の世界となる。この世界を前にして読者は、裕明に倣って、ひとりで、静かに、したたかに酔えばよいのである。

さてここで、読者が独りで酔わねばならないことを考えれば、一句ごとに拙い鑑賞を添えるのは野暮な行為である気がしてくる。取り立てて好きな句を(といっても絞りきれず60句ほど)書き抜くので、読者は裕明世界に、気ままに滞在するのが良いと思う。裕明の句の中でついつい長居し過ぎてしまうのはぼくだけではないだろうから。眼差しの圧迫も、季題の専制もそこにはなくて、いつの間にか倍の速度で過ぎ去ってゆく時間の流れを、あるいは時間の逆行を、音楽を聴くようにして、昼から夜に、あるいは夜から昼に、心地よさに身を投げ出せばよいのだ。ぼくはここで筆をおこう。

花間一壺60句抄(柳元佑太選)

なんとなく子規忌は蚊遣香を炊き
川むかうみどりにお茶の花の雨
咳の子に籾山たかくなりにけり
いつまでも白魚の波古宿の夜
春立つやただ一枚のゴツホの繪

夕東風につれだちてくる佛師達
まつさきに起きだして草芳しき
引鴨や大きな傘のあふられて
遠きたよりにはくれんの開ききる
天道蟲宵の電車の明るくて

この旅も半ばは雨の夏雲雀
きらきらと葬後の闇の桑いちご
逢ふときはいつも雨なる靑胡桃
桐一葉入江かはらず寺はなく
雪舟は多くのこらず秋螢

悉く全集にあり衣被
野分雲悼みてことばうつくしく
蟬とぶを見てむらさきを思ふかな
穴惑ばらの刺繡を身につけて
好きな繪の賣れずにあれば草紅葉

いづれかはかの學僧のしぐれ傘
しげく逢はば飽かむ餘寒の軒しづく
いちにちをあるきどほしの初櫻
げんげ田といふほどもなく渚かな
雨安居大きな鳥が松のうへ

筍を抱へてあれば池に雨
大き鳥さみだれうををくはへ飛ぶ
降りつづく京に何用夏柳
思ひ出せぬ川のなまへに藻刈舟
約束の繪を見にきたる草いきれ

のうぜんの花のかるさに賴みごと
深酒とおもふ柳の散る夜は
ただ長くあり晚秋のくらみみち
春晝の壺盜人の醉うてゐる
草いきれさめず童子は降りてこず

二月繪を見にゆく旅の鷗かな
あゆみきし涅槃の雪のくらさかな 
向日葵に萬年筆をくはへしまま
葡萄いろの空とおもひし貝割菜
宿の子の寢そべる秋の積木かな

ほうとなく夕暮鳥に菜を懸けし
菜の花をたくさん剪つて潮の香す
うすものや渚あるきのよべのこと
見えてゐる水の音を聽く實梅かな
花茣蓙にひとのはかなくなりにけり

天の川間遠き文となりにけり
さだまらぬ旅のゆくへに盆の波
菌山あるききのふの鶴のゆめ
はつなつの手紙をひらく楓樹下
銳きものを恐るる病ひ更衣

暑き日の婚儀はじまるつばくらめ
白晝の夢のなかばに鮎とんで
昔より竹林夏の一返信
落鮎や浴衣の帶の黃を好み
渚にて金澤のこと菊のこと

橙が壁へころがりゆきとまる
梅雨といへどもつららのひかりながむれば
朋友に晝寢蒲團を用意せり
なしとも言へず冬草にまろびけり
いまごろの冬の田を見にくるものか

葛原妙子『葡萄木立』を読む

柳元佑太

『葡萄木立』(白玉書房、1963)は、葛原妙子の第4歌集である。第1歌集『橙黄』(女人短歌会、昭和25年)、第2歌集『飛行』(白玉書房、昭和29年)第3歌集『原牛』(白玉書房、昭和34年)に次ぐものであるのだけれども、『縄文』(未刊歌集、『葛原妙子歌集』(三一書房、昭和49年)所収)、それから『薔薇窓』(白玉書房、昭和53年)がこれよりも制作時期的に前に当たるので、第6歌集と見做すのが一般的なようである。とはいえ、ぼくとしては世に問われた順を序数とすべきではないかと思うのだが(なぜなら塚本邦雄のように未刊歌集を後出しで何冊も出されてはたまらないからだ)、異議申し立てをするほど立腹していて困難を感じているわけではない。

さて葛原妙子(1907―1985)は東京の本郷の生まれである。塚本邦雄をして「幻視の女王」と云わしめた超越的な(つまり経験的なリアリズムの批評語彙だと語り損ねるような)歌風で知られる、戦後を代表する歌人である。塚本も指摘しているけれども、彼女が太田水穂の「潮音」に1939年に参加していたことは、多くの作家に於いて師系というものが本質的にはほとんど何も語り得ないように、葛原の場合もあまり意味をもたないだろう。

葛原の作品を一読すれば何の無理もなく飲み込めると思うけれども、葛原の歌風というのは徹底的に葛原自身の中で醸成された短歌観の中に根差す具象空間と象徴空間との暗喩を介した一度きりのものである。先行世代の文体を安易に所与のものとすることに因る薄っぺらな写実作品ではない。葛原の身体性があり肉体があり、そこから屹立するものである以上、師系というものが作家の中で安易に幅を利かすことはあり得ない(いったい、その格闘無しに誰が作家たることなんて出来るのだろうか?)。

ぼくが葛原を読んでいて感嘆するのはそういう意味で作家であると感じられるからである。無論短詩という形式を選ぶ以上ある種の作品間での影響関係、時代への隷従からは逃れられないのであろうけれども、良品製造のコードと戯れるだけのおままごととは全く異なった、自分の言語が築くデーモニッシュな世界の強度をいかに練り上げるかという格闘があるように感じる。

そういう意味では『葡萄木立』所収の

なにの輪ぞわれに近づき広がりてまた目の前に閉ざしゆきたり(「魚・魚」より)

こどもようしろをみるなおそろしき雪の吹溜【ふきだまり】蔵王は冷えてゐる(「北の霊」より)

美しき把手ひとつつけよ扉にしづか夜死者のため生者のため(「爪」より)

黒いこども暗い潮に跳ね廻る しかも跳ねゐる音のきこえず(「吃音」より)

光源の真下に毛長き犬あそぶときふと犬のうしなはれたり(「垂毛」より)

椅子にして老いし外科医はまどろみぬ新しき血痕をゆめみむため(「風」より)

わが肺のネガフィルムを透かしみよ一本の黒き柿の木立ちたり(「片手」より)

ふとおもへば性なき胎児胎内にすずしきまなこみひらきにけり(「めざめをりき」より)

くらき壁に鉄塔かすかにあらはれ鉄塔はあらしに呻吟せり(「秋の人」より)

などはさすがに葛原妙子と思わせる凄みは十二分に感じさせるけれども(実際好きな歌もあるけれど)、いかんせん作り物でしかないだろう。この歌に異界はない。異界を引き寄せるコードを保持した語彙と書きぶりによって作られた、いわば異界のテーマパークなのであって、夕暮れに遊園地がその門を閉じれば、読者は異界を摂取し終えた疲労に心地よく浸りながら、親子友人と楽しく語らいながら立ち去ることが出来る。

というのも、存在しないものを存在させたり、存在するものが存在しなかったりするのは歌の世界においてさして困難ではない。であるから、謎の輪に取り巻かれたり、死者生者のためのノブが用意されたり、不気味な子供がいたり、犬が失われたり、不気味な医者がいたり、肺に柿の木があったり、胎児が目を見開いたり、壁に鉄塔があらわれても、それはその歌そのものが怖いのではなくて、その歌が引き寄せる既成の観念が恐ろしいのである。それを歌の手柄といって誉めそやすことには、ぼくには躊躇われる

歌が異界に扉を繋いだように見えてもその先にあるのはようするにお化け屋敷なのであって、観客を歓待するために造られた富士急ハイランドの戦慄迷宮と大差ないのだ(しかし臆病なぼくにとっては富士急ハイランドの戦慄迷宮が充分恐ろしいように、これらの葛原の歌もそういう意味では十分に恐ろしい。怪談には「テーマパークだと思ったら本当の異界だった」というパターンもあるのだし)。

しかしながら、例えば以下のような歌こそは、本当の異界であろうとぼくは思う。どうだろうか。

厨のくらがりにたれか動きゐて鋭きフォークをしばしば落せり(「爪」より)

厨のくらがりに誰かがいる気配を感知する。繰り返し、繰り返し、金属が床に落ちる音がする。しかし作中主体はなぜかその音をなすものがフォークであることを知っていて、あろうことかそのフォークの鋭さをまでも知っているのである。書きぶりからして既知だからということではなくて直感として知ってしまっているのである。この感覚の神経症的な鋭敏暗がりの中で繰り返し、繰り返し行われる不気味なフォークの落下。しかしギリギリのところで現に踏みとどまるような無作為さと偶然性を、アリバイということでなしにたっぷりと抱え込んでいる(だからほんとうに怖い)。ここに異界のコードは無いが、そういう意味ではこここそが異界である。つまり、経験的な世界を叙述の仕方をもっていつの間にか異界に変えるということこそがここで行われていることなのだ。

白き午後白き階段かかりゐて人のぼること稀なる時間(「ひとり」より)

あるいはこの歌ならどうだろう。「白き」という形容によっていくぶん抽象化されているといえ、全きうつつの階段でしかないはずであるのに、なぜこんなにも異界めくのか。ここには白昼の異界がある。叙述をもってして経験的な世界を異界に変じる歌にこそ、ぼくは『葡萄木立』最大の魅力を感じた。

他にも好きだった歌を記しておく。

あまたなる弧線入り混り夕光【ゆふかげ】のさかなは水槽の隈にあつまりき(「魚・魚」より)

白鳥は水上の唖者わがかつて白鳥の声を聴きしことなし(「片手」より)

いうびんを受け取るべく窓より差しいづるわが手つねなる片手(「雲ある夕」より)

硝子戸に鍵かけてゐるふとむなし月の夜の硝子に鍵かけること(「爪」より)

晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の瓶の中にて(「啄木鳥」より)

草の上にゆるやかに犬を引き廻し与えむとす堅きビスケット(「標」より)

メロンの果【くわ】光る匙もてすくひをりメロンは湖よりきたりし種【しゆ】ぞ(「湖の種」より)

白鳥は水上の唖者わがかつて白鳥の声を聴きしことなし(「片手」より)

ぎつしりと燐のあたまの詰まりたるマッチ箱ぬき しづかにわらふこども(「草の上の星」より)

猫の凝視に中心なし まひる薄濁の猫の眼なれば(「草の上の星」より)

それから最後になるけれど、カトリシズムの歌と第三句の欠落(「晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の瓶の中にて」など)の歌は浅学につき今回触れることが出来なかったので、ここに謝して稿を終えたい。乏しい教養が評を断念させることこそ虚しいことはない。

飯島晴子『蕨手』を読む

柳元佑太

飯島晴子(1921-2000)は何度読み返しても畏怖の気持を抱ける稀有な作家だ。かのごとき修羅と作品的な孤高を、大学生の片手間の凡評で捉えることは出来ないと怖気尽かせるには充分だし、その気持は恐る恐る筆を進めている今も変わらない。

『蕨手』(鷹俳句会・1972年)は晴子の第一句集である。このとき、晴子51歳。のちほど句を引用するが、早くも晴子の幾つもの代表句が我々の前に立ち現れる緊張感溢れる句集である。とはいえ晴子を「鷹」(あるいは俳句界)を代表する作家として見做しても何ら問題ない現代の評価の感覚からすると、第一句集の刊行はやや遅いように感じられる。

しかし晴子が俳句を始めたのが38歳の頃ということを考えればそんなものなのかもしれない(有名な譚だが夫の代理人として馬酔木の句会に出席したのが晴子と俳句の出会いである)。しかも藤田湘子の序文を信ずるに晴子は初学時代の句を落としているようだから、句集に所収されている句はほぼ40代中盤からの句と言うことになる。またこの時期は「鷹」の創成期とも重複するということもあり、晴子の資質や、「鷹」という句座(もっと言えば藤田湘子)が認め得た句のありよう、晴子を取り巻く時代的な状況など、非常に多くのことを物語ってくれる句集であるように思う。読み応えたっぷりである。

とはいえ読者諸氏は筆者による以上のような前置を全て忘れて頂いて構わない。何故なら『蕨手』が希求するのは純粋な言葉の世界に於ける火花であって、句を作者に収斂させることで読者の俗な欲求に応えるということではないからである。冒頭に置かれた、

泉の底に一本の匙夏了る

の伝説的な一句が全てを物語るだろう。泉の底にある匙という具象が帯びる象徴性(そしてそれを引き出す夏の終り頃の光のまぶしさよ!)は読者を晴子の領する異界に誘い込むに充分な強度を保持している。とはいえ、ぼくはこの句は幾ばくか、価値が分かり易すぎるのではないかと思う。判断がしやす過ぎる。詩情を引き寄せすぎている。その手付きが余りにも鮮やかすぎる。何かが物語られるという予感を残すという効果を期待して句集冒頭一句目に置かれる意味はあっても、どこか既存の詩情が大部分を占めるような気もするのだ。だがしかし、それは晴子の手ぬかりというよりも、湘子が理解し許し得たぎりぎりのラインであったとするなら仕方ないのかもしれない。
ともあれ『蕨田』における白眉はやはり、

一月の畳ひかりて鯉衰ふ

であると思う。書生の間借りするような六畳一間の畳ではなくて、地主や旧家、あるいは寺のような、庭に面している面積の大きな部屋の畳を思う(となると庭の池に鯉がいるというのも無理がなくなってくる)。

淑気に満ちた、冬の硬く冷たい光が差し込んでいるかもしれない。しかし人は居ないだろう。無人である。茫漠とした虚無が空間を統べている。そしてそこには幾分抽象化された畳があって、うすぐらくてましろい光を放っている。庭の池の中では鯉が静かに衰えてゆく。何かの価値の参照を安易に許さない厳しい措辞は美しい。

他に人口に膾炙した句を拾うと、

旅客機閉す秋風のアラブ服が最後

雪光の肝一つぶを吊す谷

樹のそばの現世や鶴の胸うごき

などであろうか。このあたりは奥坂まや氏の『飯島晴子の百句』(ふらんす堂)にも採録されていたはずである。特に〈樹のそばの現世や鶴の胸うごき〉は何度見ても凄まじい句で、「鶴の胸うごき」という写生めいた措辞がリアリティを引き寄せるのだけれども、一方で鶴の胸が動くさまというのはどことなく不可思議かつ崇高で、マジックリアリズムめいた感じもする。フィクションの艶を捨てていない。そして「樹のそば」以外は「現世」ではないのだろうかと考え始めたときには、すでに我々はうつつと異界の境界に立たされていることに気付くのである。掲句は永田耕衣や詩人の吉岡実も賞賛したときく。

また晴子は身体性の能力も獲得も抜きん出ていたとおもう。

こめかみに血の薄くなる返り花

喉くびに山吹うすく匂ひけり

いつまでも骨のうごいてゐる椿

曼珠沙華瞳のならぶ川向う

肉声をこしらへてゐる秋の隕石

などはかすかな身体性によすがとしてイメージがリアリティに繋ぎとめられる。ナイフの切っ先のような鋭利な感覚が句の中に緊張していて、単なる措辞を超えて、危なっかしいものが自分の前に差し出される感覚がする。

家にゐる父匂ひなく麦乾く

蟬殻の湿りを父の杖通る

藪虱横を兄たち流れてをり

六月の父よ生木の梯子持つ

冬簾やゝふくらみて母まよふ

やつと死ぬ父よ晩夏の梅林

どうにでも歪む浴衣を父に着せる

家族や血縁が読み込まれていると句から好みのものをざっと拾ってみた。全て拾えばこの倍はあると思う。父、母、兄などの語を晴子は積極的に句材として採用していることがわかる。とはいえそれは日本伝統の私小説めいた、告白を伴うベタついたものではない。それはどこか抽象化された家族の姿であり、血が通っていない感じがするものである。精神分析にも通じるような、ある種の比喩的なイメージとして語が弄ばれている印象があり、こういった書きぶりは”前衛”と呼ばれていた俳人たち、例えば高柳重信らと分かりやすく類似している。そして実際に彼らと交流があったことを思えば、それはあながち意外なことではない。

秋の宿黒き仏間を通り抜け

夏の禽位牌の金の乱れ立ち

さくら鯛死人は眼鏡ふいてゆく

走る老人冬の田螺をどこかで食ひ

晴子の句は、異界がすでに家の中というか、普通安全とされている空間に所与のものとして侵入しているところから、句が書かれ始めるから怖いのだと思う。よく異化ということが言われるけれども、晴子の句は、晴子が書くことが起点となって異化されるのではなくて、初めから異化している空間を、見たままに書いたような文体が獲得されている。だけれど、もちろんそんなことはあり得ないから、ほんとうに、ほんとうにそれは凄い文体の力なのである。

火葬夫に脱帽されて秋の骨

恐れ入った、という気持ちになる。

春日井建『未青年』を読む

柳元佑太

春日井建20歳の時に刊行された『未青年』(作品社・1960)という歌集は初めから伝説となるべき要素を抱え込み、なるべくして伝説となったような歌集である。17歳から20歳までの歌を所収した一青年の第一歌集に三島由紀夫の序文つき。しかも三島由紀夫をして「われわれは一人の若い定家を持ったのである」と言わしめている。

大作家が無名の青年の序文を執筆することを訝しく思うむきもあろうが、春日井を三島に紹介したのは敏腕編集者の中井英夫。中井英夫は「短歌研究」「短歌」の編集長を務めた所謂「前衛短歌」の仕掛け人、黒幕である。彼が著した『黒衣の短歌史』を読むと、中井が当時十代後半だった春日井に格別目をかけ、総合誌での作品発表の機会を与えていたことが分かる。要するに平たく言えば春日井にはジャーナリズムの中に後ろ盾もあった。その歳において得られるものとしては最高のものと思われるバックアップのもと『未青年』は世に問われ、世の歌人に賛否ありつつも熱狂的に迎えられ、センセーションを生んだ

また春日井の『未青年』以後の歌集の一般的な評価が余り高くはない(ようにぼくから見える)ということも、相対的な『未青年』の価値を高めてしまっているように思える。『未青年』以後の春日井に向けられた読者のかような眼差しには同情を禁じ得ないが、しかしそのような受容こそが『未青年』を「伝説」に押し上げたのも事実であろう。

とはいえ、伝説など犬も喰わない。一読者として春日井のテクストに忠実に精神を浸して、『未青年』を受け取りたい。ある種の古典は、己に引きつけてある種強引に読まれることを待っている。だいたい、例えばドストエフスキーやサリンジャーを醒めた批評的な「大人」の精神で受け付けて何が得るところやある。精神的な成熟を迎える前の人間が一人部屋に籠り読むべき書という愚かなカテゴライズが許されるならば『未青年』もそのような種類の歌集であるように思うし、ぼくのごとき生意気な(!)未だ精神の青く熟していない読者の評を『未青年』が許さなければ嘘であろう。

さて『未青年』は以下のようなエピグラフから始まる。

少年だつたとき 海の悪童たちに砂浜へ埋められた日があつた あの日 首すじまで銀の砂粒をかぶつて みうごきできない僕が 泣きながら知つたのは何だつたろう 夕焼けの火影となつて立ち動く裸の少年たちにくみふせられたぼく そして 残照にまだ熱い砂に灼かれて 肌はきんきんといたむのだった ああ日輪 みんなの素足が消えていつた砂山のむこうから やがて青ざめた怒濤がおしよせ ぼくのいましめの砂が波にほどけるころひとりぽつちのぼくの真上には 病んだ 紫陽花のような日輪が狂つていた

鼻につくくらい甘美な文章である。ここにはマゾヒスティックな倒錯した快楽に目覚めてしまった非力で泣虫な少年がいる。このエピグラフが見事に導出した、受動的で脆弱な主体は、章の中で主題を変えながら、ナイーブさへの嫌悪(禁忌を侵犯しようとする動き)とそのナイーブさ自体の持つ深さへの逆説的な耽溺を行き来する。なお、一首ごとに評をつけるような野暮はやめようと思う。章から好きだった歌を選んで章ごとに感想を附したい。

「緑素粒」

大空の斬首ののちの静もりか没【お】ちし日輪がのこすむらさき

学友のかたれる恋はみな淡し遠く春雷の鳴る空のした

唖蝉が砂にしびれて死ぬ夕べ告げ得ぬ愛にくちびる乾く

埴輪青年のくらき眼窩にそそぎこむ与へるのみの愛はつめたく

プラトンを読みて倫理の愛の章に泡立ちやまぬ若きししむら

童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

われよりも熱き血の子は許しがたく少年院を妬みて見をり

白球を追ふ少年がのめりこむつめたき空のはてに風鳴る

青嵐はげしく吹きて君を待つ木原に花の処刑はやまず

石皿に噴水の水あふれゆけば乳にむせたる記憶の欲しく

粗布しろく君のねむりを包みゐむ向日葵が昼の熱吐く深夜

水仙の苔のしづむ眼の清くみどり児が知恵をふかめゐる冬

青年が恋愛感情を抱く。同性愛のようにもとれる。過剰な身体性を持て余しつつも積極的に動くことは出来ず、むしろ進んで自らの身体の観察者の位置に立ち、自然が火照った身体を冷ます。鬱屈とした性の芽生え。理性による抑えつけが性愛のとめどなさを保証する。濡れ滴るような、色彩的な叙情は圧巻。

「水母季」

襲ひくる兄の死霊を逃れむと帆を張れば潮の香がなだれこむ

水門へ流るる潮にさからひて泳ぎつつ兄の死も信じ得ぬ

生きをれば兄も無頼か海翳り刺青のごとき水脈はしる

潮ぐもる夕べのしろき飛込台のぼりつめ男の死を愛しめり

内股に青藻からませ青年は巻貝を採る少女のために

水葬のむくろただよふ海ふかく白緑の藻に海雪は降る

蝶の粉を裸の肩にまぶしゐたりわれは戦火に染む空のした

兄よいかなる神との寒き婚姻を得しや地上は雪重く降る

白猫の眼にうつされし灯が揺れて父の胸奥【むねど】にねむる軍港

舌根が塩に傷つく沖にまで泳ぐともわれはけだものくさく

亡くなった兄への愛、思慕と恐れ。兄への挽歌であるのだろう。兄と自分は鏡像関係にあるようにも読めるし、兄弟間での愛というものも仄めかされる。敗戦後十五年しか経っていないことを考えれば南洋で死んだ(とされる)兄のイメージはリアル。

「奴隷絵図」

ミケランジェロに暗く惹かれし少年期肉にひそまる修羅まだ知らず

エジプトの奴隷絵図の花房を愛して母は年わかく老ゆ

略奪婚を足首あつく恋ふ夜の寝棺に臥せるごときひとり寝

有頂天に生きてみづみづと孵化しゆく少年の渇を人らは知らず

火祭りの輪を抜けきたる青年は霊を吐きしか死顔をもてり

牛飼座空にかたむき遠くわれに性愛を教へくれし農夫よ

子を産みし同級の少女の噂してなまぐさきかな青年の舌

絵画や彫刻のモチーフが頻出。この辺りから家族や血の「待逃れがたさ」を朧げに感じ始める。〈子を産みし同級の少女の噂してなまぐさきかな青年の舌〉が男性の身体性の暗がりの中に発見している獣臭さは、案外表面的に見えるけども、キャッチーで届く。

「雪炎」

季めぐり宇宙の唇【くち】のさざめ言しろく降りくる冬も深まる

肉声をはるかに聴きてくだりゆく霧の運河にひたる石階

だみ声のさむき酒場に吊られゐて水牛の角は夜ごと黝ずむ

膝つきて散らばる硝子ひろはむか酔漢の過失美しければ

帰りゆくさむき部屋には抱くべき腕さへもたぬ胸像【トルソオ】が待つ

ことばなど失ひはてむ日がくると仰げり小暗く雪の舞ふ空

雪の冷たさの中に熱が見出されるという在りようは、この歌集における作中主体の在りようともリンクするのではないか。

「弟子」

ヴェニスに死すと十死つめたく展きをり水煙する雨の夜明けは

唇びるに蛾の銀粉をまぶしつつ己れを恋ひし野の少年期

刺すことばばかり選べり指熱くわれはメロンの縞目をたどり

石膏のつめたき筒をぬくめゆく若く愛されやすき両脚

無骨なる男の斧にひきさかれ生木は琥珀の樹液を噴けり

傷つけばなべて美し薔薇疹も打撲のあとの鈍き紫紺も

旅にきて魅かれてやまぬ青年もうつくしければ悪霊の弟子

太陽の金糸に狂ひみどり噴く杉のを描きしゴッホ忌あつし

ねむられぬ汝がため麻薬の水汲めば窓より寒く雪渓は見ゆ

力のある歌が並んでいる印象。師弟関係を性的な関係に読み替えていく作業が行われている。思えばこれまでの章でも、同性、血縁関係、師弟関係などの社会の中では性的関係に読み替えることを禁忌とされてきたものを、あえて侵犯している。

「火柱像」

磔刑の絵を血ばしりて眺めをるときわが悪相も輝かむか

ひとときを燃えて悔なし金環の陽が翳るときほそく息吐く

沈丁花の淡紫のしづむ午さがり未生の悪をなつかしむなり

星落ちて宇宙組織の脱落者のわれのみならぬことを哀しむ

両の眼に針刺して魚を放ちやるきみを受刑に送るかたみに

獄舎の君を恋ひつつ聴けり磁気あらし激しき海を伝へる電波

暗緑の菌糸きらめく石壁にもたれて形余の友を恋ひゐき

独房に悪への嗜好を忘れこし友は抜けがらとしか思はれず

軟禁の友を訪ひゆく夜くらく神をもたねば受難にも遭はず

罪を犯し獄へ向かう友人を見送る自分。自分は悪の途に踏み込むことはしない(いつだってこの作中主体は消極的である)にも関わらず〈独房に悪への嗜好を忘れこし友は抜けがらとしか思はれず〉などど述べる。悪への憧れがあるのだが、それを成就させないことにマゾヒスティックな快楽を覚えているようにすら見える。60年という時代を考えれば安保なわけで、独房などどいう語は同時代的状況とも確かに響き合っていたはずである。

「血忌」

晩婚に生みたるわれを抱きしめし母よ氷紋のひろがる夜明け

芽水仙に光が氾濫する昼は累々と毛嫌ひするものが増す

死せる兄生きゐる弟みな冥くながき血忌の胸ふかく棲む

「兄妹」

あばら骨つめたく軋みて氷上を追ひゆかり飢ゑしわれ男巫【おとこみこ】

雪まみれの二月といふにまざまざと干からぶ眼窩もつ兄弟か

千の嘘告げしつめたき愛のため少女の雨の日の夢遊病

「血忌」「兄妹」二つの章とも歌はやや弱い印象を受けたけれども、家族や血という主題についてより厚みが出ている。ただ、この先には天皇制の問題があるはずだけれども、春日井はそこまでは踏み込んでいない。これは春日井の手落ちであると思う。この歌集における唯一の欠点を挙げるとするなら、世界観の構築を優先して斬るべきもののすぐ近くまで到達しながら斬らなかったことを挙げたい。

「洪水伝説」

鉄舟を漕ぎゆか男みづみづと幾千のノアの水漬ける街

水ひかぬ路地の露店に骰子を振るわが欲望の鳥【イアンクス】の泥光る手よ

無尽数の白兎がとべる波がしら大洪水の後も騒ぎたつ

夜の海の絡みくる藻にひきずられ沈むべき若き児が欲しきかな

わが手にて土葬をしたしむらさきの死斑を浮かす少年の首

余剰なるにんげんのわれも一人にて夕霧に頭より犯されゆけり

最後の章。神話と名古屋(春日井健は愛知県の人である)をオーバーラップさせていて非常に読みごたえがあった。水の底に沈んだ大都市名古屋。ああこれだけ豊かな物語をカタルシスで終わらせてしまうんだなという微妙に残念に思う気持ちもありながらだが。

とはいえ春日井建『未青年』を通読して感じたのは、これを過去のものとして通り過ぎるにはあまりにも惜しすぎるということである。幸い、近々読本が出る水原紫苑をはじめとして、健に惹かれ、師事した歌人は多い。それだけ健のエッセンスは歌壇には分有されているはずだし、彼らからにじみ出る『未青年』を感じるのもそう悪くはないはずだ。

*春日井建の表記に誤りがある箇所がありましたので修正いたしました(2021年3月13日)