丸田洋渡の運転するレンタカーの乗り心地は素晴らしく快適だ。青い日産マーチは茶畑の中を滑らかに進んでいく。直近に自損事故を起こしたぼくを助手席、平野皓大と吉川創揮を後部座席に乗せる。
茶畑を横断するように送電塔がリズミカルに幾本も連なっている。黄砂なのか花粉なのか霞なのか判別がつかない春の淡いもやが彼方へと流れていく。神羅万象が明らかに春の様相だ。
丸田洋渡は軽口を叩きながらハンドルを軽快にさばく。赤くなった目をこすりながら窓を開けた平野皓大に、花粉症なのに何故開けたのかと吉川創揮が突っ込む。平野皓大は笑いながら何か言ったが窓は閉めない。春風が吹き込んでくる。皆がどことなく春の旅に心が浮かれているようだった。
海へ行く春おしゃべりな運転手 吉川創揮


ぼくらは二七歳になる。「帚」は十代の頃から縁が続いている仲間で、気心が知れている中ではあるけれどでもそれほどべた付いた付き合いをしているわけでもない。つかず離れずというと冷たい感じがするからそれとも少し違うのだけれど、少なくともぼくにとっては飾らずに、自然体で付き合える数少ない(というか無二の)友人たちであることは間違いない。久闊を叙したり、だらだらとどうでも良い話をしたりしながら、車は岬の果ての灯台へを目指して走っていく。静岡の黄信号は短い、と嘘か本当かわからないことを丸田洋渡が言う。
黄信号みな一瞬のラナンキュラス 丸田洋渡
掛川駅から二十分ほど車を走らせれば、眼前にすぐに太平洋があらわれた。海の水面に午前の日差しがきらきらと反射している。日々の労働で身をやつしているぼくらの中に旅ごころがむくむくと湧き上がってくる。恒例になりつつあるぼくらの小さな春の旅に、ぼくらははやくも充足の気配を感じとる。
旅の充実を決めるのは、事前の準備とか、旅行先とか、費用とかでなくて、ひとえに自己の魂の飛翔だ。これは結構微妙なもので、どんなに遠い土地に赴いても、何か些細なことに起因して日常からのくびきを逃れることに失敗し、離陸することが出来ないこともままある。けれども遠州の春の海は、確実にぼくらを刺激した。塩梅よく魂の軽やかさを感じていた。
ロードサイドには今は運転を停止している浜岡原発が見えたり、思いのほか大きいプロペラの風力発電機が見えたりする。電気は周縁で作られ中央に供給される。
霾や原發に塔あらまほし 柳元佑太
市街を抜ければ岬だ。進行方向右手には遠州灘が輝きを放っている。海の照り返しの柔らかな眩しさをもろに受けながら進む。沖の方には霞越しに船の影が動いていた。


目的地だった白亜の建造物が見えてくる。岬の小高いところに置かれているそれは御前崎灯台である。灯台には螺旋階段が設えてあって、ドラクエみたいに一列になって灯台内部をぐるぐると廻って、思っていたよりも急な段差を急かされるようにのぼる。
おお、とか、わあ、とか、ぼくらは思わず感嘆の声をあげた。地球、としか言いようがないパノラマだった。沖の方では黒潮と駿河湾の瀬流がぶつかっている。一帯には暗礁群が潜んでいるらしい。かつては船の難所だったようだ。


灯台に吹き付ける海風はすさまじかった。平野皓大が案外怖がっているのも面白い。丸田洋渡はいったいどういうことか分からないけれど、眼鏡を吹き飛ばされていた。景色を堪能して見晴台を後にしようとした吉川創揮は年配の観光客に話しかけられて話の切り上げどころを失って風に吹きさらされていた。
貝つぶら灯台つぶら鳥帰る 平野皓大
灯台のふもとには誓子の句碑があった。「句碑の割には良い句だね」と含みのある言い方をしたのは「帚」の面々のうち誰であったか。句碑というものは現代においてなお観光資源になるわけでもなく、ほとんどの人がその意味内容を理解しない空虚さがあるのに、その権威性が何かしらの信心を要求する間抜けさがある。空虚、権威、間抜け。そしてそれは句碑というよりも俳句そのものの本質ではないか。


灯台からもう少し車を走らせると砂丘がある。砂丘というとてっきり鳥取にしかないものかと思っていた。ひかえめな砂丘というよりはしっかりと海を遮るくらいには壁をなしている。砂に足をとられながら砂丘をのぼり、海に向かって降りていく。春の日差しに白く輝きながら、太平洋が穏やかに波を淡く浜に打ち付けている。心地よい静けさを感じる。春の太平洋は確かに穏やかなのだけれども、しかし何か強度が潜性しているようなところがある。ぼくらは何を言うでなくばらばらに散っていく。


永き日や佇ちて砂丘のあちこちに 平野皓大
砂丘側を振り返れば、私以外の帚の三人が、砂丘中腹の乾ききった二メートルほどの流木にベンチよろしく腰かけている。横一列に三人が座っている様は如何にも微笑ましい。かまびすしげに会話するわけでもなく、しかしてんで別のことを考えているわけでもなさそうで、春の海を眺めて、何かを考えたり談笑したりあくびをしたりしていた。


浜松でレンタカーを乗り捨てて、鉄路で浜名湖の北岸に移動する。天竜浜名湖鉄道の始発である新所原駅にはうなぎ弁当が売っていて、うなぎという食べ物の魔力というか、その三文字を見たときにそのことしか考えられなくする力のようなものがある(結局ここでは購入しなかったが夕食はみんなでうなぎを食べた)。


湖畔は海辺とは別の種類の静けさがあって、桜が控えめに咲いていたり、燕がせわしなく巣を建築していたりする。自然なゆったりとした時間の流れがそこにはあって、普段いかに時間を操作可能なものとして管理して忙しく過ごしているかを逆照射的に思わざるを得ない。そんなことを言ったって賃労働者として自分の時間を切り売りするしか生計をたてるすべがないのでせんないのだが。
宿では卓球をし、思いのほか盛り上がる。丸田洋渡はテニス経験者なので、一人だけコマンドにスマッシュがあって、ずるいと言えばずるかった。
春の夜の卓球台のふかみどり 丸田洋渡


暁のころおもむろに起きだして、日の出をみた。冷え冷えとしたほのぐらい湖を、ピンク色の太陽光線が照らす。朝風呂に入ったりベランダから湖を眺めたり、朝寝をしたり、思い思いに朝を過ごす。
湖照るや旅も朝寢の癖拔けず 柳元佑太
適当に入った喫茶店のモーニングのパニーニを丸田洋渡や吉川創揮が絶賛していたり、「さわやか」のハンバーグを食べ損ねて無駄な移動をしたり、みなで東京に帰った後にぼくの草野球の試合を応援しにきてくれたり(彼らが見ている前で満塁本塁打を打てたことは生涯忘れることはないだろう)、まだまだ記したいことはあるのだけれど、このあたりで筆をおこうと思う。
「帚」がどういう集団になっていくのかはぼくらにも読めないところがあって作品を発表出来ていないのは忸怩たるところがないわけではない。ただ確実なのは、「帚」というのは、友情のひとつの形態に便宜上ついた名前だということである。友情が続く限りはたぶん「帚」はなくならない。
また旅に行こう、みんなで。
遠ざかるもの眩しくて春の旅 吉川創揮
また旅へ花粉症のかほで会はん 平野皓大