さくら葉桜ネーデルランドのあかるい汽車 田島健一

所収:『ただならぬぽ』(ふらんす堂、2017)

 春になると思いだす一句。
 語が詰まって次々に情報が追加されていく。786と随分定型を逸れる形になっているが、「さくらはざくら」の音感・内容的な流れと、「の」で伸びた先の「汽車」という速度のあるもので締まることで、この句特有の緩急、なめらかさが生まれている。

 私にとってこの句は、こういうリズム感を特長とする俳句のなかで一番頭に焼き付いている。ただ、その魅力について、いまいち自分の中で言語化が出来ず、整理がついていない。未だにぼんやりとこの句を見ている。

 句のリズムやスピードが内容と合っている点が大きい気はする。表現によって立ち上げるスピードが、句から離れた技術の面だけに終わらず、内容の「汽車」や「さくら」→「葉桜」に返っていく、その誘導がきれいに、スムーズになされているところが、句として心地いい。田島健一の他の句を見ていても、韻を明らかに踏みましたという句や、言葉の連携をとことん外しましたという句よりも(そういう句が訴えかける「ふつうの句」への打撃や、脆い言語で建てた脆い建造物みたいなものにも惹かれるが)、そういう表現のリズムが内容と響き合っているものがとくに、良い味を出しているように思う。

 凧と汽車いずれものんき麦畑/大井恒行 (『大井恒行句集』ふらんす堂、1999)

  例えば汽車のこの句を見ると、「のんき」という言葉が、凧、汽車、麦畑の三方向へ伸びていて、なんとも穏やかな風景が想起される。好みの作品であるが、リズムというか流れとしては〈凧と汽車/いずれものんき/麦畑〉と一回一回止まってしまうというか、句の中の光景は動いたり広がったりしているのに、句自体のリズムがそれに伴って動いていないように思ってしまう。それが悪いわけではないが、そこが揃うとより気持ちよくなるのではないかと思う。
 詩は、その詩ごとに、それぞれのリズムがあるのではないかと、私は常に思っている。悠長でなだらかなものを、キレキレの575の定型に合わせにいくのは、いささか競技的というか、それもそれでどこを削ぎ落とすかのスリリングさはあると思うが、発想した瞬間の詩の持っているリズムは失われていくのではないか(長いこと俳句や短歌をやっていたら、そのチューニングに慣れ過ぎて、発想した瞬間からそういうリズムになっている、というのはあると思われる)。

 さくら葉桜の句は今の段階では、定型から外れようとするその手つきが見えすぎて好ましくないという評価を受けやすいのかもしれない。これがいつか、一番いいところに言葉を置いて詩に寄り添った特有のリズムを創出していると読まれるようになればいいなと思う。

 内容の面にも触れておこうと思うが、これがまたいまいち分かっていない。「さくら葉桜」は、開花している桜と、葉桜が同居している景色と見るのが良いのか、さくらはすぐに葉桜へと変わるという、時間を汲んだ見方をすればいいのか。「汽車」という語がまた絶妙で、そういう景色だけのことにも思えるし、時間のことにまで触れているようにも思える。
 ネーデルランドとは、オランダの本国での呼称であり、「低地の国々」という意味を持つ。私は個人的に世界史の時によく聞いた単語で、ネーデルランドという言い方には過去を回顧する感覚がある。大昔から時間をまたいでいるような、そんな汽車が見えてくる。
 この「さくら」は、果たしてネーデルランドにあるのか。桜を日本で見ていて、ネーデルランドには汽車があるという情報や映像を別に感じているのか。汽車は、桜の下を走っているのか。特定することは出来ない。
 ただ言えるのは、オランダには桜が咲いている道があって、そこを明るい色の汽車が通っている、その映像を見たという句だ、とのっぺり解釈したのでは面白くないということである。
「さくら葉桜」が喚起する時間の連続する感覚、と「ネーデルランド」との間に生まれる日本の植物と異国の感覚、そして「汽車」がそれらを強引にやわらかく貫いていく感覚、それらがイメージとして混然一体と「あかるい」中に結ばれていく。それもすごくなめらかなリズム・スピードをもって。こういう感覚ばかりの不確かな読みは嫌われるものかもしれないが、空気感とイメージとリズムが一致した/させた、非常に心地のいい美しい詩であると思う。私もこういう句から学んで、この傾向を深化させていけたらと思っている。

記:丸田

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