所収:『光と私語』いぬのせなか座、2019
この「(知らないが)」の感覚について、他の𠮷田の歌を見ながら確認したい。
脚の長い鳥はだいたい鷺だから、これからもそうして過ごすから
「だいたい鷺」。確かに、日常の範囲で川辺で見るような足の長い鳥はだいたい鷺であろうと予測はされるものの、なんだか適当である。たぶん鷺だけど、本当の所の真偽は知らない、知らなくてもその場でとりあえず納得できればいい。「そうして過ごす」の部分をどこまで膨らませて読むかによるが、細かい差異に気を取られず、知ったこっちゃないがこういうのはだいたいこうしとけばいい、くらいの温度感・ゆるさで生活していこう、という感じに私は読んだ。
私たちの生活において、鳥の名前が何であっても実際どうでもいい、という素直な感覚が漏れている歌だと思う。一見なんだか優しそうな歌であるが、自分たちに関係の薄いものに関してはどんどん適当に把握していくところに、少し怖さ(心配?)がある。
飼いもしない犬に名前をつけて呼び、名前も犬も一瞬のこと
服部真里子に〈春だねと言えば名前を呼ばれたと思った犬が近寄ってくる〉(『行け広野へと』2018)、望月裕二郎に〈いもしない犬のあるき方のことでうるさいな死後はつつしみなさい〉(『あそこ』2013)があったりするが、『光と私語』でも多く犬の歌が登場している。「飼いもしない犬」、散歩ですれ違った他人の犬なのか、野良犬を見かけたのか、ペットショップで対峙しているのか、状況は分からないが、自分が飼う予定もないのに犬に名前をつけてみる。
この感覚はさっきの「だいたい鷺だから」に似ていると感じる。脚の長い鳥も、飼いもしない犬も、関わる気が最初からないのなら、だいたい鷺だと雑な把握をしたり、名前をつけてみて遊んだりしなくていいんじゃないか、と思ったりする。これは私の余計なお世話であって、別に好きに名付けてもいいと思うが、知ったこっちゃない世界に対して、やけに主体自身から関わりに行っている気がする。
一方で、
いないときのあなたのことをよく知らない。
この作品(自由律の短歌として観たが川柳としても読めるかもしれない)は、分からないものは分からないものとして、それ以上踏み込んではいない。さっきの「だいたい鷺だから」のテンションで行けば、いないときのあなたはだいたい眠っている、とか言いそうなものなのに、である。
いつまでも語彙のやさしい妹が犬の写真を送ってくれる
この歌を見たとき、「いつまでも語彙のやさしい」かあ、と思った。微笑ましい歌のように見えるし、それでいい(この兄妹・姉妹の関係についてそれ以上深く踏み込まなくてもいい)ように思うが、どうしても気になる。今使っている言葉がやさしい(易しい・優しい)ならまだしも。妹が「妹」ではない場所(兄や姉に見せていない顔)でどんなことを話しているか、これからの未来どんな言葉を話すようになるのか分からないのに、「いつまでも」と言ってしまう。もし、「いつまでも使う言葉がやさしくあってほしい」というのならもう一言その意味が分かる言葉が欲しい。
ただ、これについては、妹のことを何にも分かっていないような適当な兄・姉像を裏で書いている、とも読めなくはない。〈美少女にずっとならない妹をそれでも駅まで送ったりする/長谷川麟〉(第四回大学短歌バトル2018)という歌が物議を醸したことがあったが。愛着が変な形で表れていることを「いつまでも」で示しているとも読める。
本は木々には還らぬとして(知らないが)あなたのことをあなたより好き
まとまりのつかない文章になってしまったが、改めてこの歌を見る。「(知らないが)」が目を引く表現になっている。(知らないが)は上にも下にもかかっているような印象がある。知らないけど、あなたがあなたに思っている以上に、私はあなたの事が好き。知らないのに適当言うなという話だが、「だいたい鷺」の歌と同じように、そういう温度感で生活していこうよ、みたいなゆるい感覚が受け取れる。また、本当にそうであるかは分からないけれどそれくらい自分は好きなんだという、謙虚で微笑ましい言葉である。
木から出来た紙、紙から出来た本。本がもとの木に還って行くことは無い。だからどうした、という話である。「(知らないが)」の感覚。本が木に戻らないことも別にどうだってよく(なんとなく素材としておしゃれ感・寂しさはある)、ただあなたの事が好きなんだと、がむしゃらに言う。
知らないことを、だいたいで把握して、放置するようでいて、でも何となく自分から関わって、色々なことを言ってしまう。そういう余計さが、この歌をより良くしている。
記:丸田