ひといつかうしろを忘れ小六月 飯田龍太

所収:『遅速』(立風書房 1991)

単純なようでいて意味がはっきりとしない、ただ忘我の境に立っていることだけ伝わる句として鑑賞していた。ここに原子公平『浚渫船』より〈水温むうしろに人のゐるごとし〉を並べてみると、もっと身近に引きつけて解釈することも出来そうだ。若いころに詠まれたの原子の句に対し、掲句は龍太最後の句集となった『遅速』に収録されている。つまり若年と老年の意識の違いが見える。

青春という過渡期において多くが誰かに見られているような感覚で苦しんだろう。いたるところに眼があり、光りを帯び、じっとり絡んでくる。想像上の視界の中で自らの行動を抑えつけてしまい、なし崩し的に悪い方向へ流れていく。原子の句にはこうしたある種の感じやすい青年の怯えが伺える。一方で龍太の句はそうした眼の範囲から逃れ、ゆうゆうと過ごすだけの老いのゆとりがある。

また、意識の違いは取り合わされた季語によってより明白になるかもしれない。原子の句は「水温む」と冬から春への温かさを感じていながら冬に意識が寄る語であるのに対し、龍太の句は「小六月」と冬にいながら暖かさを感じている。青春という時期は明るく満ち足りていると同時になにかうすら寒い暗さが奥に潜んでいる。それは温さや生命の横溢だけでない「水温む」に通じる一方で「小六月」は年を得て、あとは死にゆくだけの冬にありながら老いの充実を感じさせる語であると思う。

記 平野

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