洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音 平岡直子

所収:短歌研究2020.1

口語という語り口の中でも色々な語り方があるけれども平岡氏が採用するのは怪しい作中主体を立ち上げるやや過剰なそれ。昼過ぎの喫茶店、隣席で繰り広げられる宗教勧誘やねずみ講にいそしむ中年女性のごとき作中主体の表象を手繰り寄せる翻訳調めいた仮構された語り口である。陰謀論めいた世界の秘密を教えてあげんとでもいって顔を近づけてくるような印象がある。この文体が、怪しげな意味内容を支えるのである。

「洗脳」という語は考えてみればものすごい語である(おそらく成り立ちはbrainwashingの翻訳語なのであろう)。脳を洗うという行為は、洗う側も洗われる側もそれなりの覚悟がいるだろうに、戦争や対立を好むこの人類という種族はいかなる時代いかなる民族においてもこれに類することをやってきた。しかも大抵、洗う側は倫理観が欠落している為政者かマッドサイエンティスト、あるいは機械的に従うだけのアイヒマンなのであるから、いつも脳を洗われる側だけが理不尽な恐怖に遭うのが洗脳という営為なのである。比較的穏やか、されど長期間行われる人道的な洗脳もあれば、短期間ではあるけれども薬物や電極を利用した鬼畜、悪魔の所業としか形容しがたい洗脳まで人類は幅広く開発してきた。けれどもそれらが如何にバラエティーに富み豊かであっても、凡人凡夫たる私のような人間にとっては避けれるものならばとことん避けたい、恐ろしいものの一つである。

しかしながらこの作中主体、洗脳自体は不可避なものであると囁く。まるでワクチンとか車検のような感覚である。洗脳はもう所与のものであるから諦めなさい、と。もうみんな洗脳というものはされていて、どの洗脳をされたのかにこそ、大事な部分があるのだ、と述べる。これ、考えてみれば「洗脳はされるのよどの洗脳をされるかなのよ」なのではなく「洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ」と過去形になっているところも何気に怖い。もうわれわれは洗脳済みなのであって、そこにわれわれの選択の余地はない。他人に植え付けられた運命に殉ずる運命論者にならざるを得ない。これは、学校や牢獄というものが、身体や精神を均質なものにすることで、従順な工場労働者や兵士を作るための装置であったというフーコーの指摘であるとか、江藤淳らが指摘する陰謀論としてのWar Guilt Information Programなどの諸々を下敷きにして鑑賞したくもなるが、もちろんそういう読みをせずともこの歌は立派に不気味である。

それから「砂利を踏む音」というフレーズも何気ない言い方がされているけれども練られたフレーズだろう。この文脈におかれると、洗脳する中で用いられている何か反応を誘発する刺激としての音のような感じがするし、庭に巻かれる造園用の砂利は、砕いた後洗浄され綺麗にされたものであることを考えても、どこか洗脳という語と響き合うものがある。

記:柳元

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