所収:『短歌』2018.11
喘息もちだろうか。「ありわらのなりひら」が気管支をしゃらしゃら鳴らすさまはなんだか痛々しい。いや喘息もちだろうとたぶん気管支はしゃらしゃら鳴らないわけだが、そのあたりの絶妙な嘘くささ、誇張されたサブカル漫画みたいなフェイクっぽさ、けれん味こそ愛すべきなのである。「なりひら」はわたしに腕をさしだしてくるわけだが、当然気管支を鳴らしているような人間の腕に掴まるのは無理だし、それは「なりひら」もたぶん承知なわけだが、それでも、「なりひら」は腕をさしだす。だからこそこの歌には妙な切実さが宿っている。
技巧的な部分を読めばおそらく「なりひら」の「ひら」の音が「しゃらしゃら」を呼び寄せ、「しゃらしゃら」の「し」が「気管支」「ならし」「わたし」「さしだす」の「し」を軽やかに踏んでいくわけだが、この音の連なりの気持ちの良さも特筆すべきだろう。
最もこの一首だけ読んでもやや詮無いことで、というのもこれはかなり連作という形式に依るところが大きい歌だからである。〈なりひらのきみとでも呼べば振り向くかおとこの保身かがやくひるに〉という歌から始まるこの一連の連作は、比較的近しい関係にある「きみ」(どうやら保身している男性らしい)を、在原業平に見立てることで動き出す。
平安時代初期の歌人在原業平は、六歌仙・三十六歌仙の一人で、『伊勢物語』のモデルとしても知られる。しばしば優雅で反権力的な表象のされ方を伴うが、どうやらこの連作においては異なるようで、 取り上げた歌もそうだし〈くらき胸を上からたどればとまどいてなりひらのようにきみはかわいい〉のような歌を見てみても、庇護される対象として、つまり優しいがどこか線の弱く頼りない「なりひら」を感じさせる。
それは平仮名に開かれた表記が直接そう感じさせるというよりも、歌を平仮名に開くという書き方がこれまで担保してきた、極めて現代短歌的としか言いようがない永遠の明るさ(思いつきで命名するならグラウンド・ゼロっぽさ)を引き連れているという方が適切な感じがする。
〈しまながし ホログラムする快楽のみずをたどってきみとはなれて〉のように「わたし」と「きみ」の二人の関係性が、どことなく世界の行く末と直結しているいわゆるセカイ系っぽさも、時代の雰囲気をよく捉えていて、読み応えのある連作だった。
記:柳元