よろしくね これが廃船これが楡 なかはられいこ

所収:『現代川柳の精鋭たち』(北宋社 2000)

 ジブリの映画『魔女の宅急便』で、キキが「私、魔女のキキです。こっちはクロネコのジジ」と言っていたのを思い出す。「よろしくね」の言い方から、「これが廃船これが楡」というのも、そのくらいのテンションで述べられたのだろうと推測できる。初読時は友達紹介をしているのだろうと思ったが、それにしては「これが」という表現が引っかかる。「これが」で思いつく状況として、「これは日本語で何というの?」というような外国語話者に質問されたり、子どもに名前を質問されているときなどがぱっと想像できる。要は、「これは何?」と聞かれて、「これが」と返答している、という状況。それなら「これが」も自然になる。
 しかし、この句では、一字空けをしているとはいえ、「よろしくね」からさほど時間が空いていないように思われる。挨拶の後、質問されて答えているというよりは、挨拶の延長として同じ人が喋り出しているように感じられる。

 そこで魅力的な謎、不明点として、どこで喋っているのかが分からないことがある。質問の返答なのであれば、「これが」は自然だが、キキのような場合であれば、「これが」は近いものを指していることになるだろう。であれば、「廃船」と「楡」をすぐに指せる場所とはどこなのだろう、と想像させる。楡の近くに廃船が放棄されているのか、廃船の近くに楡が植えられて育ったのか。そもそも外にいるのか室内にいるのか。ノートに廃船と楡の落書きをしていて、自分からそれを見せているのか(この句の場合、指すものが実際に目の前にあった方が迫力があるように思うから、この読み方は魅力的ではないが、「よろしくね」はしっくりくる)。キキのような場合なら、おそらく廃船と楡の近くである外で喋っているし、外で喋っているのなら外で「よろしくね」が起きたことになる。どの年齢の人と人が出会ったのかは分からないが(人ではない可能性も十分にある)、まだ「よろしくね」の関係である人物に向かって、「これが」「廃船」・「楡」だと説明する状況を、自分の経験の中に持っていない。不可解である。

 私が一番気にかかっているのはその部分である。この状況を想像しにくい=想像しにくい状況を作ったこと、がこの句の魅力であろうし、「これが」の連続で敢えて型っぽくすることで単語勝負に持って行った戦っているところが読みどころでもある。しかしそこが若干、灰汁のように引っかかっている。「これは何」と聞かれて返答している状況でも、キキのように紹介している状況でも、それが自然になるように無理矢理場面を想像することは可能であるが、それが読者に過度に負担をかけているように感じる。それが魅力なのは十分に分かっているが、作者が句を作るために「廃船」と「楡」という詩的な単語で飛ばしていったがために、単に作品内の世界で終わらず、作品外の作者の手つきでこちらが困っている、という節が強い。

 これは川柳や俳句や短歌に課せられた問題だと思うが、短いがあまりに、すべてが突然やってくる。表現も、言い方も、単語も突然である。いくら写生の作品であっても、突然それについて話しはじめ、それについて語り終える。そして短いがあまりに、作者の手つきというのがどうしてもそこに透ける。
 掲句に関しては、作者の手つきも混ざりあっているところが妙味であろうが、私にとっては、それによって作品世界がぶれて、乗り切れない部分があるなと感じた。ただ、「廃船」と「楡」という単語の距離で勝負するぞという気概は好みだった。

 楡といってすぐに思いだせる短歌に、

  楡の木となりある夜あなたを攫ひに来ると言はれて待つはさびしきものを/永井陽子
  鋭い声にすこし驚く きみが上になるとき風にもまれゆく楡/加藤治郎
  毒舌のおとろえ知らぬ妹のすっとんきょうな寝姿よ 楡/東直子
 *

があり、(短歌ということも一因としてあるのかもしれないが)楡はなんとなく性的な空気感であったり、〈わたしーあなた〉の線に登場しやすいイメージが勝手にあった。こういう単語勝負の作品はその語がどういうふうに想起されるかに左右されやすいが、私の中で、「廃船」と「楡」、「よろしくね」は、透明な悪意でまとまって、胸の中で暗く結晶している。

*引用は順に『樟の木のうた』1981、『サニー・サイド・アップ』1987、『春原さんのリコーダー』1996。

記:丸田

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