所収:『万座』(角川書店、1968年)
どこまでも続くとおもわれた陸も岬に出るといよいよその先は海で、波のうねりの大きい日は岩壁にぶつかる波の、底知れない響きが迫ってくるのです。
長いこと岬の土中ですごした蟬たちにとって、海鳴りの恐ろしさというのは常識でしょう。もしかすると蟬のなかには、幼いころ子守唄のように聴いていた海鳴りの響きを覚えていて、喧しい鳴き声に、海鳴りのリズムをひそませる者もいるのかもしれません。
掲句は、真鶴岬七句と前書きされた句群の最後に置かれています。〈灼鳶の声先細り岬細る〉からはじまって、掲句の一つ前には〈崖打つてのぼる濤音蟻地獄〉が並びます。
波は力づよく、恐ろしく、まわりの音どころか人の命も奪います。それは事故かもしれませんし災害かもしれませんし、『万座』に戦後の空気が色濃くおさめられていることをおもえば海没した兵士たちのことも頭をよぎります。
私は海軍贔屓で、もし自分の分身を様々な時代に派遣できるとしたら、分身の用意が100体いや1000体もあれば、1人は海軍兵学校に送ってみたいと思っています。勿論それはロマンとしての海軍であって、自らの死を引き受けているわけではない、無責任な想像ですが。
船に乗って戦地におくられる海兵たちはいわば死にゆくわけです。甲板に出て、相撲を取ってみたりしていても、死ぬまでの寸暇を楽しむような体の悲しみが、あとの時代を生きる私たちの目には見えてきます。
いま、もし、その体を死にゆく体と呼ぶならば、戦後には生き延びてしまった体というものもあったのでしょう。不死男の代表句ともいわれ、『万座』におさめられている〈終戦日妻子入れむと風呂洗ふ〉には、そうした類いの悲しみがあって、平穏な社会になって妻子ができて内風呂ができて、しかし生活の狭間に、過去が身を離れずにつきまとっているような疲労感を読み取ってしまいます。
潮風の吹きつける岬の木にしがみつき、腹を震わせて鳴く蟬の目も同じような悲しさや疲労感を帯びているようです。蟬の寂かな目は、陽を受け白飛びしながら陽を照りかえす海の広がりの底に、あまたの思いが沈んでいることを知っています。
海のことを母なる海と呼び、人の意思を超えた巨大な存在としての海を讃えることも一つの祈りですが、それでも人の世界には人の感情があり、海に融和されない塊として心中に留まります。悲しみや怒りを見つめ、決して溶けることのないその痛みを抱える目が、寂かな目なのだと思います。
記 平野

