身にしみて風景が面倒になる 佐藤文香

所収:『菊は雪』(左右社、2021)

 句集を読んでいて、はたとこの句に立ち止まって、とりあえずメモした。その後読み切ってから改めてメモを見つめ、不思議な気持ちになった。

 この句に立ち止まったのは、完全な共感からだった。「身にしみて風景が面倒になる」。この怠惰な感じ。
 私はこのごろ俳句が作りにくくなっている。俳句の何が面白くて、何を面白いと思って、何を完成させようと思って書いているのかがぽっかり分からなくなってしまったし、かつてはあったであろうそういう感覚を、思い出せないくらいまで遠くに置いてきてしまった。今までにもスランプ的なものはあったが数日すれば治っていたし、すぐに復活して作っていたが、今回はなかなかしぶとく、俳句を書く理由ごと消滅してしまった気分(短歌の方は好きで順調に書きつづけられている)。

「風景が面倒」。この感覚がたまに訪れる。風が吹いてきて、雨が降ってきて、急に晴れて、花が揺れて……そんな露骨な「風景」を目撃すると、暗に「俳句を書け」と要請されているようで不快になってしまう。もともと自分は風景の描写に徹して書くタイプではなかったので傷は浅いが、それでも、「風景」には嫌気がさす。
「面倒」。これはかなり絶妙な表現で、書き手が発する表現だなと思う。ふつうの人(というか何というか、風景を受けとって自分の表現力をもって外に出す必要がない人)からすれば、「面倒」にはならないだろう。鬱陶しいとか、気持ち悪いとかになると思う。俳句を読んでいて常々思うが、あまりにも風景が多すぎる。季語なんてほとんどが風景である。すぐに映像を立ち上げようとする。誰がどう思ったとか、そういう内的な話は少ない。
 いつだったか、誰かと「水温む」という季語について話したとき、「温かくなってきた嬉しさが水量から分かる喜ばしい季語」みたいなことを言われたのを覚えている。本意的にはそうなるんだろうか。この「本意」とやらも未だにいまいち納得できていないが。たしかに嬉しい気持ちで温んできた水を見つめる人はいるだろうし、そういう気持ちで詠まれてきたのだろうが、私は「水温む」には恐怖を覚える。温んでくる、ということに生理的な(?)気持ち悪さがあるように感じるし、強引に春の陽気さでくるまれていくその目に見えない力(かつ、そういう力に全身を委ねて幸福になろうとしている気持ち?)が怖いと思う。
 そこで「水温むのが怖い」とはっきり書いたとして、それが面白がられることはそうないだろうと思う(残りの音数で最高に面白く書けば面白くなるだろう、そこを模索していくのが正しい在り方なのかもしれないが)。というのも、それは、「水温むといえば嬉しい感情を示している中で、それを裏切っていることの面白さ」と取られてしまうからである。わざわざ普通とは違うアピールをしている、とこちらからすると厄介な曲解をされることになる。あなたがどう思っているかはあまり知ったこっちゃないんですよ、みたいな雰囲気になってしまう。
 だから、感情を詠んだ俳句は風景に対してというよりは、自分自身のものすごくパーソナルな事情において(恋とか親の死とか)詠まれることが多いと思う。そこにさりげなく季語が添えられる、くらいで。

 私は、とにかく俳句の中で感情の話をしたい! というわけではない。人の感情が消えて、風景だけが残る美的さに惹かれるときも多々ある。が、風景から感情が読まれていく際、「この風景が来たらこの感情」みたいなものがテンプレートとして出来上がってしまっているような気がして、「風景」だけを書いたものであっても、同じくらい「感情」に見えてしまう。し、そう見られていることを苦痛に思ったりする。私としては気持ち悪い単語なのに、読み手は綺麗なものだけを想像してしまう、そして気持ち悪さを表現しようと思ったら、音数的に無理、みたいなことが多発する。やがてそういう個人の独特な感情を表現することがどんどんなくなっていって、「風景」に(または「読まれてきた風景」に)順化して、「風景」の中でちょっと面白いことでも言うか、くらいになっていく。また、「季語」は、それを、推進するものであると思う。「季語」を使う限り、そうなっていってしまうのではないかと極端なことまで最近は思い始めている。

「身にしみて風景が面倒になる」、ノーマルに読めば、この「風景」は純粋にふつうの風景であればあるほど面白くなっていく句だろうと思う。ただ今の自分からすると、この「風景」は、裏に感情が透けている「風景」であり、それは「季語」や「俳句」に替えることが出来る。「身にしみて」、私も「面倒」に思う。

 ただ、句集を読み終えて改めてこの句を見て不思議だったのは、この句が終わっても「風景」を詠んだ句がどんどん続いていくことだった。「身にしみて」というほど、「面倒」だったのに、そのわりにはすぐに「風景」に戻っている。これは、面倒だとこちらが思っていても暴力的なまでに「風景」は連続して出現する、ということを言っているのか、その瞬間は面倒だったがすぐに気が変わってやっぱり「風景」にもいいところはあるよね、となったのか。「風景」は面倒だと思ったが、「風景を書くこと」は決して面倒ではないとして書きつづけることになったのか。

生きるの大好き冬のはじめが春に似て/池田澄子〉私は池田澄子の句の中でこれが一番好きで、とてつもなく明るい句にも思えるし、とてつもなく暗い句にも思える。「大好き」と満面の笑顔で言っているようにも思えるし、全力で皮肉っているようにも見える。「冬のはじめが春に似て」は、固まった「風景」を揺り動かしているのだと、今の私は希望的に読んでしまう。見かけだけの「大好き」ではない(だろう)ところに、強く惹かれ続けている。
 本句集の「菊雪日記」にも書かれていた『菊は雪』という一見無茶なタイトルに、私は同じような気持ちを抱いた。勝手に励まされたような気持ちになる。
「風景」に立ち向かう方法は、私の中にもまだあるのかもしれない。

『菊は雪』では他に、〈インバネス時間はいくらでもあるから〉、〈きつね園きつねのなみだこぼれけり〉、〈夏終はる月間たくさんのふしぎ〉、〈ゆめにゆめかさねうちけし菊は雪〉をメモした。俳句プロパー(?)とはまったく違う傾向の選になっているかもしれないが、それぞれ今の私に強く響くものになった。

記:丸田

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