所収:髙橋みずほ『白い田』(六花書林 2018)
何が変わるのかは分からないが、何かが変わることは分かっている。良い変化なのか、災厄のようなものの予兆なのか。心的な変化なのか、身体的な変化なのか。私に起こる変化なのか、私以外のものが変わるのか。
「しずかにうたを」歌うあたりから、なんだかいい事が起こるから呼びかけているのだと予測はできるが、「変わってしまう」という言い方には少しの翳りが見える。本当に望んでいる変化なのか。この「しまう」によって、この歌の印象が変わる。そんな不確かで、危うさを持っているものを、「うたおう」と勧誘しているのが、私には怖く思える。無責任に引き入れていることの怖さではなくて、おそらくこの主体はその変化を体験したのに尚も人にすすめていることの、言い表せない本質的な恐怖である(おそらく体験した、と考えたのは「しずかに」と「木の葉の下で」という妙に具体的な説明からである)。
ここで確認しておきたいのが、「から」の読み方で、私はこの歌を初めて読んだときに直感した恐怖から上のように読んだが、おそらく二通りに読める。
一方は、「雨が降るから傘を持っていこう」というような準備・対策・回避するときの「から」。もう一方は、「星が降るから夜空を見よう」というような、勧誘の「から」。
回避の方であれば、変わるのを避けようとして「しずかに」歌おうということになる(=大声で歌えば「なにかが変わってしまう」)。勧誘の方であれば、変わるのを望んで、ぜひとも「うたをうたおう」ということになる(=歌わなければ何も変わらない)。
この二つはふつう、内容の傾向(良いこと/嫌なことが起きるのか、良いように/悪くなるようにしようとしているのか)で判断ができる。が、この歌はそのどちらに属すのか分かり切らない部分がある。何かが変わるから歌うななのか、何かが好転するから歌っていこうなのかが、「しまう」と「しずかに」でぶれているのである。
私はそのぶれこそがこの歌の魅力であるのだろうと考えている。誘っているのか教えてくれているのかが分からず、何が変わるかもわからず、変わってどうなるかもわからない。この不安定な状況で、「うたをうたおう」という言葉と、「木の葉の下」という場所の想像と、「なにかが変わってしまう」という聞かされた事実だけが残る。この歌を読んで、「はい!じゃあしずかにうたいます!」とも、「変わるなら私は歌いません!」とも言えないし、そもそも判別が出来ない。なにかがこちらに向かって言われているという違和感だけがこちらに残り、なんだか気になってくる。
奇妙な浮遊をみせながら、でも何かを伝えようとしている、澄んだ独特な歌だと思う。
掲歌を見たときに思いだした歌が一つある。
公園に行こうよ、だんだん目が冴えていろんなものが見えてくるから/花山周子(『風とマルス』2014)
この、〈勧誘→その理由〉の型の短歌はたまに見かけるが、どちらかが突飛なもの、何故誘っているか分からないもの、二つの接続(因果)がおかしいもの、が多いように思う。花山周子の歌は接続の変さと、「だんだん目が冴えて」の説明の妙なリアルさが面白い点になっている。こう見ると、型が分かりやすいというのは弱点になりやすいが、その分、型を味方につけてうまくいったときの成功は大きいのかもしれない。
記:丸田