チャールズ・シュルツ倒れし後もチャーリーは獨身のまま白球を追ふ 佐々木六戈

所収:『セレクション歌人14 佐々木六戈集』邑書林

チャールズ・シュルツは言わずとしれた漫画『ピーナッツ』の作者であり、世界で一番有名なビーグル犬・スヌーピーの創造者である。チャーリーというのもスヌーピーと同じく『ピーナッツ』の登場人物であり、どこか冴えないが心優しい少年である。チャーリーの前にはいつも失敗が待ち構えるわけだが、彼のひたむきな姿勢に心打たれ、内向的な趣きや卑屈さに共感した読者は世界中に居るはずだ。

さて、作者シュルツは2000年に死去したわけだが、大きく育った作品というものは恐ろしいもので、作者の亡骸などは目もくれずに、人々の記憶と想像力のもとで膨らみ続ける。『ピーナッツ』も例外ではなく、登場人物たちは物語的運動をやめない。死後20年経った今日でも哲学的思索が繰り広げられる漫画は増刷され、スヌーピーの長閑なほほ笑みはTシャツにプリントされる。チャーリーの恋も実らないまま、のろのろと白球を追い続ける。

ただ佐々木六戈が用意した「独身のまま」という措辞はどこか丸顔の少年に似合わない。『ピーナッツ』の世界を考察するウェブサイトを幾つか見たところ、チャーリーは1950年の連載時は4才、1971年の連載時は8歳らしく、そこからさして背丈が伸びていないことを考えてもせいぜい彼は小学校低学年のはずである。この年齢には結婚も何もない。「独身のまま」という措辞は時間的な成長がないお約束ごとの世界にはそぐわないのだ。

つまり氏は、チャーリーに対して漫画的設定からの逸脱を夢見ているのである。ここには成長したチャーリー・ブラウンがいるのではないか。作家の死によってチャーリー・ブラウンがお約束ごとから解放され、時間が正しく進み始め、大人になり、チャーリーが「赤毛の女の子」なり彼が憧れる想いびとと結ばれる世界線が可能性としては準備される。なのだけれども、なのだけれども、チャーリーは「独身のまま」……そういう措辞なのだ。大人になってもスヌーピーと戯れ白球を追う有り様はさながら独身貴族(?)である。ルーシーやライナス、サリー、他の登場人物らはどうなっているのだろう。チャーリーと同様に、シュルツが造形した通りの物語を遂行しているのだろうか。それとも。

チャーリーの関して言えば、ここに自分が知っている世界が継続している嬉しさと一抹の悲しさを思ったりもするのだが、ぼくらにそんな権利を行使される言われはなくて、連載が停止したのちにチャーリーがどんな人生を選びとっていようと彼の勝手であろう。彼はいつもいつでも白球を追っているのであり、そしてまた追っていなくともよいのである。ともかく幸せあれ!

記:柳元

ふるさとがゆりかごならばぼくらみな揺らされすぎて吐きそうになる 山田航

所収: 『水に沈む羊』 港の人 2016

山田航はブログ(http://bokutachi.hatenadiary.jp/entry/20160420/1456822716)にて歌集『水に沈む羊』について『地元と学校が嫌いな人のために詠みました。』と説明している。今回とりあげる短歌における「ふるさと」、ブログの説明にある「地元」はどのような場所が想定されているのか、歌集の他の歌も読むと分かってくる。

果てなんてないといふこと何処までも続く車道にガストを臨む

ゴルフ打ちっ放しの網に桃色の朝雲がかかるニュータウン6:00

延々と伸びてゆく車道沿いにある「ガスト」や「ニュータウン」という語から分かるように、山田が「ふるさと」「地元」として想定したのは、特定のどこかでなく、かつどこにでもる「郊外」なのではないだろうか。

「郊外」は上記の歌にある通り「ゆりかご」のように住みやすい。しかし、赤ちゃんを喜ばせるための「ゆりかご」のやさしいゆれが、「ぼくら」にとっては吐き気をもたらす悪なのである。ことごとく平仮名にひらかれた「ふるさと」「ゆりかご」にはそれらに対する皮肉や憎悪が伺えるようにも思う。

私自身、広島市の中心部から離れた新興住宅街で子供の頃を過ごした。何も不都合を感じた記憶はないけれど、公園と特に深い面識のない人が住む家が立ち並ぶだけの退屈な場所だった。
嫌悪感など特に深い理由があるわけではないが、私は広島という「ふるさと」に帰る進路は選ばなかった。そんな今だからこそ、この歌が「ぼく」の歌でなく、「ぼくら」の歌であることを少しありがたく思う。

記:吉川

ともだちが短歌をばかにしないことうれしくてジン・ジン・ジンギスカン 北山あさひ

所収︰『崖にて』現代短歌社、2020

 相当嬉しかったんだろうと思う。どれくらい嬉しいかは直接言われていないが、「ジン・ジン・ジンギスカン」のノリの良さに任せているところから充分にそれは伝わってくる。ジンギスカンが歌詞に入っているノリのいい曲と言って思いつくのは、西ドイツのグループ・ジンギスカンの「ジンギスカン」と、北海道ソング(?)である仁井山征弘の「ジンギスカン」。ジンギスカンバージョンは「ジン・ジン・ジンギスカ〜ン」の感じ、仁井山征弘の方は「ジンジンジンジンジンギスカン、ジンジンジンギスカン」の感じで、表記的には前者の方が掲歌には近い気がする。ただ、声に出したときのリズムだと、「うれしくてじん/じん/じんぎすかん」の詰まっていく感覚が面白くなり、これを「ジン・ジン・ジンギスカ〜ン」と読んでしまうと、「うれしくて」の後に大きい一呼吸が空いてしまうことになり、それまでのきっちりした定型のリズム感が損なわれる。そのため速度的には仁井山版のスピードで読みたい。実際の所何でもいい。これらの曲でない可能性は十分にある。

 嬉しい、という感覚について思うとき、私は、自分が何かをして嬉しいというのがまず最初に思いつく。その後に、何か良いことをされて嬉しくなることが思いつく。
 友だちが短歌を「ばかにしないこと」が嬉しい。この、何かを「しないこと」が嬉しい、という感覚は、一回何かを経ているように思われる。例えばこれなら、いつも短歌を口にすると馬鹿にされることが多々あって、だから馬鹿にしないだけで嬉しいと思うようになった、というふうに。だから、この言い方は、相当に嬉しかったんだろうなと思った。

 それにしては一瞬気になるのが「ジン・ジン・ジンギスカン」。ページをめくってざっと目に入るぶんだけで言えば、かなり雑な表現にも思える。ただそれも、短歌への愛からくるものなのだろうと思う。一首の中で自由なことをやっていることに、短歌への信頼が窺える。途中までしっかり定型なのも、また。

 短歌の中で短歌の話をするメタな歌はままあるものだが、短歌の中で短歌を擁護する、わたしは短歌と両想いだ的なことを言う作品はそこまで見ない(老成した歌人の十を超えたあとの歌集とかには見られるが、若手にはあまり見かけない印象がある)。「ともだち」「うれしくて」の平仮名への開き、「ジンギスカン」の素材の選択から見える若さ(もっと言えば能天気さ)が、短歌の中でまで短歌を守ろうとする堅さと一見相反しているようで、そこがこの歌の魅力であると思う。ずっと気ままであったり、ずっと真剣で真顔であったりではなく、どちらもが重なりながら現れる。
 本当に信頼している上で、だからこそ自由に遊ぶ、という歌が北山あさひには多い。短歌っぽい短歌や、自由気ままな短歌、政治を鋭く突くような短歌など、色んな面が現れて見えてくるところが読んでいて楽しい。

 ちなみに、初谷むいに、〈ばかにされてとても嬉しい。どすこいとしこを踏んだら桜咲くなり〉(『花は泡、そこにいたって会いたいよ』2018)という歌がある。ある種の開き直り方に共通するものはあるように思う。何を嬉しいと思って、嬉しいから何をしようと思うのか。感情の理由と行方に着目すると面白い。

記︰丸田

着古した服に似ている神秘に出会う人よ スプーンとスプーンとナイフ 瀬戸夏子

所収︰『かわいい海とかわいくない海 end.』書肆侃侃房、2016

 内容的にはかなり静かな歌だと思っているが、韻律や歌の展開のさせ方から表現の激しさがうるさく聞こえてくる。深海と水面に起こる荒波の二つを透かして見ているような感覚を抱く。

 それぞれ読んでいくが、まず「着古した服に似ている」について。私は、よれていたりどこかがほつれていたりしている服で、でも沢山着てきたから愛着があって愛おしく思う、くらいにイメージしている(愛着、という言葉が、「愛しく着る」に見えてくる)。これを、古びたもの感を強く取って、早く捨てたいとか、早く新しい服に移りたい、と考えることもできる。ここをどうイメージするかによって、景の立ち上がり方が異なってくる。

 次の「神秘に出会う人よ」について。「着古した服に似ている」が、「人」に掛かっている可能性も無くはないが、変な人がノーマル神秘に出会うより、「人」が変な神秘に遭遇してしまう事件性の面白さを取りたく、ここでは置いておく(ただ、そういう神秘に出会うのは神秘と同等に特殊な人と捉えることも可能であり、韻律のスピード感も合わせて、最初の措辞を「人」に掛けて読むこともできる、また後述)。
 着古した服のような神秘。神秘とはそもそも、人知では届かないような不思議や秘密を指す。「着古した」を愛着と取るとき、人知から離れたものに対して人間的な妙な愛着を感じているのが妙である。「出会う」と初めて遭遇したように言っているのにもかかわらず「着古した」なのは、何度も味わっていたりずっと身につけていたかのようである。デジャヴのような感覚で、見たこともない神秘であるはずなのに何故か懐かしく愛着を覚える、というふうに読むのがいいだろうか。
 一方、「着古した」を古ぼけて早く捨てたい、新しいものへ移行したいという感情として取ると、「神秘」がやや皮肉っぽく見えてくる。神秘というと畏れ多かったり綺麗だったり謎めいて素敵! 的な受け入れられ方がされたりする。が、この読み方であれば、例えば旧習であったり古びた価値観であったりを敢えて「神秘」と言い直して、まだそんなものを崇めて服みたいにずっと身につけているのか、と述べているように考えられる。

 私は最初、完全に先の愛着の読み方で読んでいた。美しい神秘、それに遭遇する人、それにぶつけられる謎の映像(情報、表現)。しかしそれだと、「人よ」が引っかかることになる。音数的にも、別に「人よ」ではなくて、個人的に自分が神秘に出会って愛着を感じた、という話にしてしまうことは出来る。それを破って他者に拡げていくこと、呼びかける(詠嘆とも読める)ことの必要が、いまいち分からなくなってしまう。
 これが、捨てたいものとして考えたとき、「人よ」が分かりやすくなる。そういうある意味神秘的な旧習に好んで出会いに行く人々よ、聞こえているか、と「人」に対して怒りを向けているという読み。だんだん読み返すたびにこちら側寄りで考えるようになった。
 ただ、愛着でかつ皮肉にも読むことは出来る。先ほど「〜に似ている」を、「神秘」に掛けるか「人」に掛けるかという話も述べたが、それは感じている人によって分岐する。

 分岐をまとめると(ここでは「人」≠主体として)、
①「着古した服」は愛着あるものか、捨てたくて次に移行したいものか。
②「〜に似ている神秘」と感じたのは「人」か主体か。
 もちろん「着古した服」への感覚はその二つに限ったことではないため、読みはもっと広がっていくと思われるが、大きく考えるとこの二点で考えられる。

「本人が愛着を感じる神秘と出会った。その人へ」というタイプ、「本人は愛着を感じているある意味神秘的な旧習に、また(好んで)出会おうとしているめでたい人へ言いたいことがある」というタイプ、「私にとってはとっくに古びたものを、明るい神秘として受け止めて出会う人へ」というタイプなどなどが考えられる。
 しかし、そもそも「着古した」には愛着も離れたい願望も、どちらとものニュアンスが含まれているであろうし、「神秘」にも素敵さや畏れ、分からないからとりあえず格をあげて謎として無視する、などさまざまなニュアンスがあるため、はっきり分類することは出来ない上に、する意味はほとんど無い。
 ただ、上の句の部分に何らかの皮肉や批判の意を汲み取ろうとするならば、「着古した服」か「神秘」の箇所で、主体と「人」の感覚のねじれが生まれていることになることを確認したかった。

 そしてようやく「スプーンとスプーンとナイフ」を考える。一字空きがなされてリズムよく並べられる。銀色の食器が(テーブルの上に並んでいるか、同じ場所にしまわれているかなど位置情報を欠いて)現れることを、まったくの美しい光景として読むことも出来るが、明らかに何か意味がありそうな雰囲気と、前半の皮肉の気配から、詳しく考えたくなる。
 ナイフよりスプーンの方が多い。例えばフランス料理を食べるときのテーブルを想像したとき、そこにはスプーンよりもナイフが多くある。そしてナイフと同じくらいフォークがある。この歌ではフォークが消えて、スプーンが増え、ナイフが減っている。ただ「ナイフとスプーンとスプーン」ではなく、「スプーンとスプーンとナイフ」。スプーンの多さにも目が行くが、やはりナイフの鋭利さは最後の体言止めによって残っている。それはむしろ強化されているほどである。湖と湖と滝、と言ったら滝の落下のイメージが強くなるように。スプーンにはない切れ味と危険さが特に現れている。
 とりあえず具体的にどういう食事風景なのか、と考えていくような歌ではない。食事かどうかすら分からないが、主体は「スプーンとスプーンとナイフ」を発見/想像した、ただそれだけである。それをどう思っているのかまでは分からない。

 皮肉や批判という線をここに繋げるとしたら。制度、社会、性、宗教、年齢、文化……。一つ多い「スプーン」は何で、たった一つ未だ切れ味を持つ「ナイフ」は何か。また述べられていない「フォーク」はどうなっているのか。そして前半と繋ぎ合わせたとき、「ナイフ」は武器となって「人」を指すことになるのか、「人」そのものが「ナイフ」であると指摘することになるのか。歌の輝きや勢いは収まっていくのか、増していくのか。

 鑑賞としてはそこをどう読むかを明かして語っていくべきなのだろうが、私はそれを固定して語りたくない。「着古した」と「神秘」の揺れと、過剰とも言えるくらいの清潔な「スプーンとスプーンとナイフ」の情報の絞り方が魅力である歌に、何かをどんどん当てはめてパズルのように解くことは、それこそ「着古した」短歌の読み方なのかもしれないと思うからである。なんだか素敵な比喩と神秘と銀のカトラリーからなる歌としても、最後まで皮肉の効いた高潔な歌としても読めうるという、この歌の豊かな魅力を紹介して終わりたい。

記︰丸田

トイレの蛇口強くひねってそういえば世の中の仕組みがわからない 望月裕二郎

所収:『あそこ』書肆侃侃房、2013

 この「そういえば」の感覚が、望月の短歌にはよく登場する(以下引用はすべて同歌集)。

 立ったまま寝ることがあるそういえば鉛筆だった過去があるから

「そういえば」そうだった、と主体が思い出す。読者としては、そんなことを何故今になって思い出すのか、とか、何故そんなことが今まで忘れられていたのか、と思う。「鉛筆だった過去」をどれくらい真実のこととして受け取るかによって、「そういえば」の印象は変わってくるだろう。
 これらがもっとフラットに言われるとすれば、「そういえば」「から」のような強い因果関係を示すことなく、映像と感覚・感情をそのままくっつけて切れの部分に「そういえば」要素を受けとってもらうことになるだろう。それを敢えて「そういえば」と書くことによって、主体の感覚や性格が見えてくる。冷静だったり瞬時に判断するのではなく、行動の中でふと思い出して、そうだったなと思って、元の行動に戻る。行動はスムーズでも、思考が一瞬遠い所へ行く。この緩慢さが、独特の雰囲気を作り出しているように思う。

  十月一日
 メール一通送るエネルギーで他に何ができたか考える。

「十月一日」は詞書。この歌も、おそらくメールを打って送るという動作はふつうにしていて、ただ思考だけが徐行している。メール一通を送る程度のエネルギーで別に他の大きなことが出来るとも思っていない上に、 「メール一通送るエネルギーで他に何ができたか考える」エネルギーもまた無駄になってしまうことを、おそらく知っていながら考えている。ぼんやりと遅い。

 町中の人がいなくなる夢を見ておしゃれでいなくちゃいけないと思う

 この歌はその緩慢さがいい方に転んでいる作品であると考えている。上の句と下の句の間に、「夢を見たからそう思った」の「から」の部分が隠れているように読める。ふつうに考えて、そんな夢を見たところでおしゃれでいなくちゃ、とは思わないところを、この主体は直接つながってそう思っているという点が面白い所である。ただ、きっとこれも、夢を見てからそう思うまで、「そういえば」と思って、思考が飛んでいると推測する。そして「そういえば」が脱落して、夢を見たからそう思ったようなこの作りになって、また違う面白さが生まれたのではないか。

 最初の掲歌〈トイレの蛇口〉の歌では、トイレの蛇口をひねる行為と、「そういえば」と、「世の中の仕組みが分からない」で出来ている。これも「そういえば」が無くても成立はするだろう。しかし、「そういえば」。トイレの蛇口をひねることで自分の中である気持ちが発生して、思考が飛んで、「そういえば」そうだった、となる。立ったまま寝たり、メール一通を送ったり、蛇口をひねったり、そういう些細な行為で頭が引っかかる、行為と思考の速度差がある主体が見えてくる。「強く」ひねったことで世の中の仕組みの不可解さ・ついていけなさに考えがいったが、この主体であれば、弱くひねることでも、また違うところへ行ってしまうような気配がある。

 外堀をうめてわたしは内堀となってあそこに馬をあるかす

 このような歌も、「外堀をうめて」のあとに「そういえば」の感覚が見える。思考がどこかで自由に飛んで行ってしまう、そのポイントを探しながら読むと、望月の歌をより愉しんで読むことが出来るのではないかと考えている。 

記:丸田

洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音 平岡直子

所収:短歌研究2020.1

口語という語り口の中でも色々な語り方があるけれども平岡氏が採用するのは怪しい作中主体を立ち上げるやや過剰なそれ。昼過ぎの喫茶店、隣席で繰り広げられる宗教勧誘やねずみ講にいそしむ中年女性のごとき作中主体の表象を手繰り寄せる翻訳調めいた仮構された語り口である。陰謀論めいた世界の秘密を教えてあげんとでもいって顔を近づけてくるような印象がある。この文体が、怪しげな意味内容を支えるのである。

「洗脳」という語は考えてみればものすごい語である(おそらく成り立ちはbrainwashingの翻訳語なのであろう)。脳を洗うという行為は、洗う側も洗われる側もそれなりの覚悟がいるだろうに、戦争や対立を好むこの人類という種族はいかなる時代いかなる民族においてもこれに類することをやってきた。しかも大抵、洗う側は倫理観が欠落している為政者かマッドサイエンティスト、あるいは機械的に従うだけのアイヒマンなのであるから、いつも脳を洗われる側だけが理不尽な恐怖に遭うのが洗脳という営為なのである。比較的穏やか、されど長期間行われる人道的な洗脳もあれば、短期間ではあるけれども薬物や電極を利用した鬼畜、悪魔の所業としか形容しがたい洗脳まで人類は幅広く開発してきた。けれどもそれらが如何にバラエティーに富み豊かであっても、凡人凡夫たる私のような人間にとっては避けれるものならばとことん避けたい、恐ろしいものの一つである。

しかしながらこの作中主体、洗脳自体は不可避なものであると囁く。まるでワクチンとか車検のような感覚である。洗脳はもう所与のものであるから諦めなさい、と。もうみんな洗脳というものはされていて、どの洗脳をされたのかにこそ、大事な部分があるのだ、と述べる。これ、考えてみれば「洗脳はされるのよどの洗脳をされるかなのよ」なのではなく「洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ」と過去形になっているところも何気に怖い。もうわれわれは洗脳済みなのであって、そこにわれわれの選択の余地はない。他人に植え付けられた運命に殉ずる運命論者にならざるを得ない。これは、学校や牢獄というものが、身体や精神を均質なものにすることで、従順な工場労働者や兵士を作るための装置であったというフーコーの指摘であるとか、江藤淳らが指摘する陰謀論としてのWar Guilt Information Programなどの諸々を下敷きにして鑑賞したくもなるが、もちろんそういう読みをせずともこの歌は立派に不気味である。

それから「砂利を踏む音」というフレーズも何気ない言い方がされているけれども練られたフレーズだろう。この文脈におかれると、洗脳する中で用いられている何か反応を誘発する刺激としての音のような感じがするし、庭に巻かれる造園用の砂利は、砕いた後洗浄され綺麗にされたものであることを考えても、どこか洗脳という語と響き合うものがある。

記:柳元

夜の駅に溶けるように降りていき二十一世紀の冷蔵庫の名前を見ている フラワーしげる

所収︰『ビットとデシベル』書肆侃侃房、2015

 とにかくカッコいい歌である。どこがというと、まずは目で見て分かる「二十一世紀の冷蔵庫」の物のかっこよさ。昭和、またそれ以前の年代を生きた人から見た未来としての「二十一世紀」は何だかハイテクな最先端の雰囲気があり、まさに二十一世紀のみを生きる現在の者として見ると改めて現在を再認識しようとするその視線がクールだと思える。もっと言えば、数百年後(地球という世界、文学というものがその時まで残っているとして)から見た大昔としての「二十一世紀の冷蔵庫」も、また丁度よく古びた味がありそうで良い。
 わざわざ「二十一世紀の」と言われると、自分もたいして知らない冷蔵庫史なるものに思いが馳せられる。並んでいる冷蔵庫にも歴史があり、その進化の途中の冷蔵庫が目の前にあるわけである。そこで観光客のように感動するのではなくて、その「名前を見ている」。なんともあっさりしていて、カタカナや英語の、もう何が何だか分からない造語を目にする。まるで、「冷蔵庫」に目が留まったんじゃなくて、「名前」だけがボンッと飛び込んできてどうにも気になって立ち止まった、というふうに見えてくる。この奇妙な主体、ただなんとなく気持ちは分かる……というへんてこな共感で満たされる。そう思うと、「二十一世紀の」というのはなんだか馬鹿にしているようにも思える。内容だけでなく名前までも、よく分からないものになってきている、というような(「名前を見ている」だけであるから、主体が実際その名前に対してどう思っているかは分からない。かっこいいと思っているのか、かわいそうに、と思っているのか、はたまたダサいと思っているのか……)。

 かっこいい点二つ目として、声に出したときオーバーする韻律と、それに内容が巧く合っているところがある。この歌をどう声に出して読むかは人によって違うかもしれないが、私は〈よるのえきに/とけるようにおりていき/にじゅういっせいきのれいぞうこのなまえをみている〉という風に読んでいる。こうしたときの下の句の溢れ方が、「溶けるように降りてい」く主体の様子と重なって、のろのろとした夜の空気感が十全に伝わってくる。一方で、「溶けるように」と言いながら「二十一世紀の冷蔵庫」というシャープな(文字だけ見てもキリっと締まったような)空気のあるフレーズが差し込まれることで、自分は溶けるようでありながら、そこにある冷蔵庫はただそこに涼しく佇んでいるという対立が生まれて、一首の世界がより深まっている。この温度差・速度差が、さらっと述べられているところがクールである。

 そして、一首をもう一度上から読みなおすときに深く気づく、「夜の駅に溶けるように降りていき」、「冷蔵庫」の映像のつなぎ方が秀逸である。「冷蔵庫の名前」ということは、冷蔵庫が見える場所に来ているか、冷蔵庫の宣伝や広告を見かけていることになる。私は「名前を見ている」ことの臨場感を得たくて、電器屋の近くを通りがかって見かけたのだろうと想像している。状況の視線の誘導のさせ方、駅~冷蔵庫の距離感が良い。

 ここまで書いていて初めて気がついたが(何十回も見て読んでしていたはずが)、私は完全にこの歌を「夜の駅を」として読んでしまっていた。駅から降りて、のろのろと歩き、電器屋に差し掛かったところで、そこに飾られている冷蔵庫の名前がパッと目に入って見ている、という景を想像していた。
 しかし本当は「夜の駅に」であった。そうなると、駅に向かって溶けるように降りて行っているため、もしかしたら坂の上など位置的に上の場所から駅に向かって降りていき、駅にどろどろと入り込んで、そこで冷蔵庫の名前を見ていることになりそうである。そうなると、この冷蔵庫の名前はどこで見かけたことになるのだろう。駅の宣伝ポスターにあったのか、電車に乗りながらスマホなどで冷蔵庫を調べて名前をぼんやりと見ているのか。いずれにしても、名前に気になっている点は不思議な主体である。ひとえに自分の誤読のせいだが、急に場所が分からなくなってくる。頭の中で主体が溶けるように脳内を彷徨している。

 主体はどこで(何で)、なぜ「二十世紀の冷蔵庫の名前」を見ているのか、そしてどう思ったのか、これからどこへ向かうのか、冷蔵庫の名を見て思ったことはその後の主体の歩みにどう影響していくのか。語と韻律と世界が冷たく、そして長く光る一首である。

記︰丸田

どうしても君に会いたい昼下がりしゃがんでわれの影ぶっ叩く 花山周子

所収:『風とマルス』青磁社 2014

 花山周子の歌を読むと、ひねる、ひねらない、ということを特に考えさせられる。いくつか引いてみると、(以下引用はすべて同歌集)

  歯磨きはもう飽きたからやめようか、というふうにいかない人の営み
  きみの声がさいしょっから好きだった池に浮かんだアヒルのようで

 ひねることで、前半の映像や情報が強引に更新されていく。特に「というふうにいかない」の繋ぎ方は露骨なひねり方である。ふつうの、ノーマルに見かける短歌だと、それが「切れ」に合って、異なる二つの映像の重なり方を面白がるものが多い。

 ひねる、という表現があっていないような気もするが、花山周子の歌はどこか素直ではない落とし方をしている。「池に浮かんだアヒル」とは褒めているのかどうか危ういところで、ダメそうなところを好きと思ったのか、そもそも本心からアヒルが好きで、だから好きと思ったのか分からない。(「池に浮かんだ」の言い方は完全にナメているというか、面白がる気持ちがあるように思われる)切れ、を持ってくるのであれば、君の声が好きということと、池に浮かんでいるアヒルの映像を別々で繋げることになる。これが「のようで」の倒置と「さいしょっから」という措辞によって、ひねりが生まれている。「きみの声がさいしょっから好きだった」というふつうの(普通、というと語弊があるのかもしれないが)恋愛的な歌と思わせておいて、後半で変える、その「思わせておいて」の部分が読みどころなのではないかと思う。「というふうにいかない」の繋ぎ方も、「歯磨きは飽きたとしてもやめられない」のようなスムーズな言い方を拒否して、敢えて少し驚くような(またはふつうの表現が来ると予想される)表現を見せておいてのもので、「思わせておいたよ」というアピールなのだと捉えられる。

 この、ただの逸脱ではない、ふつうの振りをしておく、という部分が、花山周子の短歌の読みどころであるように思うし、ときに文語や旧かなを使うのもそういう役割を担っているように考えられる。

〈どうしても君に会いたい〉の歌は、そうして考えると、前半はふつうの歌っぽい表現である。(「昼下がり」という状況のわざとらしい付け加え方も、私としては回転する前のスケート選手の助走に見える)そして後半、「しゃがんでわれの影ぶっ叩く」。叩いたとして会えるわけでもないことを分かっていながら、本当に殴っているような描写。ふつうなら「会いたい」からする行為ではない。電話をかけるとか、「君」のことを想像するとか色々ある中で、「われの影ぶっ叩く」。「しゃがんで」という謎に細かい映像の作り方も面白い。まさか、通りがかりで見かけた、道でしゃがんで地面を叩いている人が、ほかの人に会いたがっているとは思うまい。

 人に会いたい主体がいてもたってもいられないという、長い助走のあとで、奇妙な回転を見せられる。共感という尺度では測りきれない、「ひねり」の先の面白さが、しずかにさり気なく光っている歌である。

記︰丸田

ありわらのなりひらしゃらしゃら気管支をならしわたしにうでをさしだす 野口あや子

所収:『短歌』2018.11

喘息もちだろうか。「ありわらのなりひら」が気管支をしゃらしゃら鳴らすさまはなんだか痛々しい。いや喘息もちだろうとたぶん気管支はしゃらしゃら鳴らないわけだが、そのあたりの絶妙な嘘くささ、誇張されたサブカル漫画みたいなフェイクっぽさ、けれん味こそ愛すべきなのである。「なりひら」はわたしに腕をさしだしてくるわけだが、当然気管支を鳴らしているような人間の腕に掴まるのは無理だし、それは「なりひら」もたぶん承知なわけだが、それでも、「なりひら」は腕をさしだす。だからこそこの歌には妙な切実さが宿っている。

技巧的な部分を読めばおそらく「なりひら」の「ひら」の音が「しゃらしゃら」を呼び寄せ、「しゃらしゃら」の「し」が「気管支」「ならし」「わたし」「さしだす」の「し」を軽やかに踏んでいくわけだが、この音の連なりの気持ちの良さも特筆すべきだろう。

最もこの一首だけ読んでもやや詮無いことで、というのもこれはかなり連作という形式に依るところが大きい歌だからである。〈なりひらのきみとでも呼べば振り向くかおとこの保身かがやくひるに〉という歌から始まるこの一連の連作は、比較的近しい関係にある「きみ」(どうやら保身している男性らしい)を、在原業平に見立てることで動き出す。

平安時代初期の歌人在原業平は、六歌仙・三十六歌仙の一人で、『伊勢物語』のモデルとしても知られる。しばしば優雅で反権力的な表象のされ方を伴うが、どうやらこの連作においては異なるようで、 取り上げた歌もそうだし〈くらき胸を上からたどればとまどいてなりひらのようにきみはかわいい〉のような歌を見てみても、庇護される対象として、つまり優しいがどこか線の弱く頼りない「なりひら」を感じさせる。

それは平仮名に開かれた表記が直接そう感じさせるというよりも、歌を平仮名に開くという書き方がこれまで担保してきた、極めて現代短歌的としか言いようがない永遠の明るさ(思いつきで命名するならグラウンド・ゼロっぽさ)を引き連れているという方が適切な感じがする。

しまながし ホログラムする快楽のみずをたどってきみとはなれて〉のように「わたし」と「きみ」の二人の関係性が、どことなく世界の行く末と直結しているいわゆるセカイ系っぽさも、時代の雰囲気をよく捉えていて、読み応えのある連作だった。

記:柳元

ヴァージニア・ウルフの住みし街に来てねむれり自分ひとりの部屋に 川野芽生

所収:『Lilith』2020 書肆侃侃房

ヴァージニア・ウルフには『自分ひとりの部屋』(A Room of One’s Own)という書物があって、これはイギリスで男女平等の参政権が認められた1928年、ケンブリッジ大学の若き女子学生たちに向けた講演をもとに構成されたものであり、フェミニズム批評の古典として再評価が進んでいるものだ。直接的な批評というよりも、虚構の人物の思考のあとを再現するような語り口でウルフの知性そのものが筆をとっているような豊かさがある。

わたしにできるのは、せいぜい一つのささやかな論点について、〈女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない〉という意見を述べることだけです。(ウルフ『自分ひとりの部屋』片山亜紀訳 平凡社ライブラリー p10)

ウルフのこの書物のタイトルの意味するところはこの一説を読めば分かる通り、女性の経済的な自立、環境的な変化が無ければ女性が小説を書くことなど出来ないのだ、と述べる。

シェイクスピアはグラマー・スクールに通わせてもらえた。ではシェイクスピアに文学に目覚めた妹がいたら、彼女はグラマー・スクールに通わせてもらえたのか?以上のような思考実験を踏まえて、軽快にウルフは語る。

結局、自室を持てるほどの経済的な豊かさと周囲の理解が女性を支えない限り、彼女がどれほどの才を持とうとも、彼女の筆がしたためたものが正当に価値を認められることは、まず無いのである。(男性はほとんどの場合自室どころか、煩わしい家庭から一時的に開放される別荘すら持てたのに!)

さて、川野の歌はもちろんこれを踏まえていよう。「ヴァージニア・ウルフの住みし街」はロンドンなのか、あるいは別の町なのか、ウルフの伝記的事実に明るくないから判断を控えるけれど、それはさして重要な事柄ではないだろう。ここで考えたいのは、旅行で訪れた宿で眠るときに、自分ひとりの部屋が与えられていたということだ。もちろんここでは、旅愁も手伝って自分の来し方についての思いが巡らされているだろう。おそらくそれは、20世紀初頭を生きたウルフよりは恵まれた環境にある自分についての思考のはずで、旅先だけでなく日常に戻っても、作中の主体には自分ひとりの部屋が与えられており、自室にはそれなりに書籍の詰まった本棚が置かれているはずである。主体が行っているイギリス旅行のような海外旅行も、20世紀初頭の女性には与えられなかったものだ(トルストイが文学的な経験を積極的に積むことが出来た一方、女性はそのような自由がなく狭い経験の筐の中で書かざるを得ないことを、ウルフは同じ著作の中で嘆いている)。これらに鑑みると、なるほどウルフよりは恵まれた環境にあるに違いない。

作中主体はいちにちの疲れに目を瞑り、身体の力を抜きながら再び思考を巡らせる。いや、本当にそうなのだろうか。ウルフよりは恵まれた環境にあるのだろうか。ウルフが20世紀初頭に言い止めている男女間の格差や不均衡は、2020年の現在、どれだけ妥当なものになったのだろう。『自分ひとりの部屋』がそれなりの鮮度を保ちこれだけ読まれる世界、フェミニズムを題材にとっていること自体が評価される要因の一つとなり、歌壇賞が与えられる世界。そういうものに対しての静かな思考の渦が、夜の底に向かって降りていくのが、この歌なのではないだろうか。

文語の律をとることが川野の歌において大きな意味をなすのは、歴史的に口語が引き受けてきた弱者の声や等身大性の伸びやかさに対して一定の敬意を払いつつ、しかしそうではない位相で、いわば「闘う」ための律であるからだろう。それは文体の選択というよりももっと社会的かつ(矛盾するようだけど個人的な)ものであり、エクリチュールの問題と言っても差し支えない。ぼくは、この態度がウルフの共有財産的な文体の選択(それでいてドルフィン・ジャンプなどの三人称の心理描写がとても前衛的なわけだが)とも非常に重なる気がするけれど、これくらいで筆を置くことにする。以下感銘を受けた歌。

思惟をことばにするかなしみの水草をみづよりひとつかみ引きいだす 
折りたたみ傘のしづかな羽化の上(ルビ:へ)に雷のはるかなるどよめき
ゆゑ知らぬかなしみに真夜起き出せば居間にて姉がラジオ聴きゐき
海底がどこかへ扉をひらいてるあかるさ 船でさえぎり帰る
ねむるーーとはねむりに随きてゆく水尾(ルビ:みお)となること 今し水門を超ゆ

記:柳元