椅子に深く、この世に浅く腰かける 何かこぼれる感じがあって 笹川諒

所収:『水の聖歌隊』書肆侃侃房、2021

 椅子、深浅、「何かこぼれる感じ」となんとなく曖昧なもので構成されている。見過ごしてしまいそうになる薄味の歌で、たとえば「この世とは~だ」(塚本邦雄の「ことばとはいのちを思ひ出づるよすが」的な)みたいな切れ味のあるものは用意されていない。
 が、この一首は、この一首全体で、静かで鋭い切れ味があるように思う。

 上の句は読みがいくつか考えられる。ひとつは、椅子に深く座ることが、同時に、この世に浅く腰かけることであるという読み。椅子に座るという動作を通じて世界の真理に一瞬触れることになる。二つめには、椅子には深く座り、この世には浅く腰かけると別の行為として取る読み。この世に腰かけるには浅めでいい(浅めにしか座ることが出来ない)という、主体の態度が見えることになる。三つめには、椅子に腰かけたあと、しばらく瞑想のように浸って、空想(脳の遠く)でこの世に腰かけるという読み。「深く、」の部分に時間が置かれることになる。

「何かこぼれる感じがあって」。自分では分からないものが、分からないところで限度の量を迎えていて、零れる感じがした。それが主体自身の中でなのか、「この世」の方で起きたのかは分からない。
 この反応が、なんとも微妙で、だから、読みがどれになるかが特定できないでいる。個人的には、「あって」の部分がものすごくあっさりしていて他人事感があるなと思った。これを、椅子に座ったらいつのまにか「この世」に接続されて、とつぜん零れる感じがした、と巻き込まれたように考えることも出来るし、別に最初から「この世」に深く腰かける気など無く、「何かこぼれる感じ」にハマって度々腰かけているようにも考えられる。座ってしずかな瞑想の果てに、「何かこぼれる感じ」をようやく得て、その達成に自身でもびっくりして「あって」としか言えない(「あった」とは言えないくらいに)、とも考えられる。

 この歌に対して、こちらが浅く腰かけるのか、深く腰かけるのかで、「浅く」「腰かける」の印象や、「何かこぼれる感じがあって」の主体の感覚の見え方が異なってくる。椅子とこの世を繋げて深浅で分かりやすく提示して軽い下の句でおしゃれにしたとも、本当に椅子とこの世に真摯に対峙した結果得られたものをあいまいなままに述べているとも読める。読者の方々にそれは委ねられるが、個人的に私はどうかというと、半々かな、と思っている。歌集に収録されている他の歌を見てみても、水的な感性や感覚で世界を捉えたという静かな歌もあれば、今風なかるい口調と発想で書かれたものもあり、この歌に関してはちょうど半々だと思う。ただそれは悪い意味ではない。こういう世界や宇宙や真理や答えみたいなものに、思いがけず触れてしまったとき、リアクションは一様にしてこうなってしまうのではないか。この歌の曖昧さや軽さが、そのまま、深い部分に触れていることを表しているように思う。一首自体が、雰囲気として、切れ味を持っている。

 最後に、一応この歌は巻頭の一首であり、「こぼれる」という章のなかにある。『水の聖歌隊』というタイトルから含めて、水のような柔軟さと神聖さで、色んなところに着いてしまう、気づいてしまうような歌が多く、掲歌もその一つなのだろうと思う。

『水の聖歌隊』には他に、〈どの夏も小瓶のようでブレてゆく遠近 学生ではない不思議〉、〈そう、その気になれば天使のまがい物を増やしてしまうから神経は〉、〈分別と多感 夜には見えているはずだよ宇宙の巨大広告〉、〈優しさは傷つきやすさでもあると気付いて、ずっと水の聖歌隊〉などがある。

記:丸田

羽根を打つために駆け出すそういえばこの世の第一印象は空 盛田志保子

所収:『木曜日』(書肆侃侃房、2020)

 羽根→手もと(打つための道具が何か想起される)→足(駆けだそうとしている)→(一瞬映像が消える(「そういえば」))→空。何でもない行動と、なんとなく思い出したことが、詩の上で奇跡的な出会いを果たしている一首。

 あまりにもそこにありすぎるせいで意識からは外れてしまうが、確かにずっと空は上にあり、風景の大部分を占めつづけている。「第一印象」という言葉(考え方)を使って周囲や世界を捉えるようになるのは少し成長してからにはなるだろうが、空が広くて青く、そこに辺り全部が包まれているような感覚は小さいころ誰しもが持つのではないか。
 この歌の「そういえば」は、読者(読む人間すべて)の感覚を呼びおこす、一番ちょうどいい言葉だと思う。そういえば空ってデカイよね、みたいな、改めて空を認識するにはちょうどいい距離・温度感。もし「そういえば」が無くて、

 羽根を打つためにわたしは駆け出した この世の第一印象は空

 このように改作したとすれば、たしかに清涼な空気はあるものの、下の句がやや唐突になってしまう。この人(主体)はそう思ったんだな、の段階で止まってしまう。「そういえば」くらいの感覚で思い出されることで、こちらも乗っかってそういえばそうだなと空に思いを馳せることになる。

 世界の第一印象とは、単に想像された頭の中の話だが、「羽根」「駆け出す」という素材・動きと、「そういえば」のおかげで、「この世の第一印象は空」だと思い出させるほどの青空がそこに広がっていることが見えてくる。言われてないのに、ここまで光景がくっきり見えてくる歌もそうそうないと私は思っている。
 もしかしたら、この世の第一印象は空だというのは、嘘かもしれない。第一印象は母親だったり、(産婦人科の病室の天井が)白い、とかそういうものだったかもしれない。ただ、駆け出したその瞬間には、それが嘘でないと自分に信じてしまうくらい、その空が迫力あるものとして感じられた。こういう、下の句でばっさり思い切った詩的な気づきを言うみたいな歌はたくさんあり、それがどう考えても嘘だろうというか、本当にそうか? みたいなものはよくある。ただこの歌に関しては、嘘であってもそう思わせるくらいの力が世界にあったことが(それを快く主体が感じたことが)分かるから、とても読んでいて腑に落ちる。

 わたくしが鳥だった頃を思い出す屋上で傘さして走れば  岡崎裕美子『わたくしが樹木であれば』

 どこまで遡って感じるのか、そしてそれをどこで、どういうことをするときに思い出したのか。岡崎のこの歌も、なんとなく似ていて思い出した。空を見ていると、思いもしないことまで、思い出さされてしまうかもしれない。怖くもあり、美しくもあることである。

記:丸田

三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びしひとはや 山中智恵子

所収:『みずかありなむ』(無名鬼・1968)

三輪山の背後から不可思議としか形容し難い月が昇った、はじめに月をツキという音と呼んだ人は誰なのだろうか」くらいが適当な口語訳でしょうか。掲歌は歌集の中では比較的平易な方の歌だと思います(だからこそ浅学な私でも取っ付けた訳です)。とはいえ、その平易さは山中智恵子のスケールの大きさを損なうものでは全くない。むしろ修辞による屈折や、韻律のふくよかさが織り込まれない分、下の句の「いったい誰が初めに月と呼んだのだろう」という疑問が、優しく響く感じがします。

三輪山は奈良県桜井市に位置する神話の山です。『古事記』にも物語の舞台として記載があり、その山体は現在も御神体として崇められています。また三輪山は山中智恵子の研究の対象でもありました。その三輪山から、月が昇ってゆく。

古代「月」という語が初めて発話された瞬間に山中智恵子が思いを馳せるとき、われわれは神話世界にいざなわれます。そして「月」を「ツキ」と初めて呼んだ古代の人間の眼差しを同じうして、夜空を見上げることになる。そのとき、月は太古の輝きを取り戻し、煌々と輝く。「太陽に"次ぐ"明るさ」だから「ツキ」という語源の説が有力であるようですが、この歌を読む限り、理屈などない、純粋な身体的な偶然性によってこの音が出たもので欲しいように私は思います。吉本隆明の「海」ばりの願望ではありますが、そうであって欲しい。古代の月と見紛えるような月との邂逅、そのカタルシス。

『みずかありなむ』は山中智恵子の第3歌集。山中智恵子の歌でも最も人口に膾炙しているであろう〈行きて負ふかなしみぞここ鳥髪とりかみに雪降るさらば明日も降りなむ〉から世界が始まります。歌集全体がコンセプチュアルに古典神話世界に遡行しつつ、水底で酸素を吸い込むように、非常に逆説的な形で、超越的な主体が戦後との繋がり方を探っているように思われます。耽美的なのだけれども趣味的でないという歌いぶりというのは、短歌史における一つの頂点でしょう。

記:柳元

本は木々には還らぬとして(知らないが)あなたのことをあなたより好き 𠮷田恭大

所収:『光と私語』いぬのせなか座、2019

 この「(知らないが)」の感覚について、他の𠮷田の歌を見ながら確認したい。

  脚の長い鳥はだいたい鷺だから、これからもそうして過ごすから

「だいたい鷺」。確かに、日常の範囲で川辺で見るような足の長い鳥はだいたい鷺であろうと予測はされるものの、なんだか適当である。たぶん鷺だけど、本当の所の真偽は知らない、知らなくてもその場でとりあえず納得できればいい。「そうして過ごす」の部分をどこまで膨らませて読むかによるが、細かい差異に気を取られず、知ったこっちゃないがこういうのはだいたいこうしとけばいい、くらいの温度感・ゆるさで生活していこう、という感じに私は読んだ。
 私たちの生活において、鳥の名前が何であっても実際どうでもいい、という素直な感覚が漏れている歌だと思う。一見なんだか優しそうな歌であるが、自分たちに関係の薄いものに関してはどんどん適当に把握していくところに、少し怖さ(心配?)がある。

  飼いもしない犬に名前をつけて呼び、名前も犬も一瞬のこと

 服部真里子に〈春だねと言えば名前を呼ばれたと思った犬が近寄ってくる〉(『行け広野へと』2018)、望月裕二郎に〈いもしない犬のあるき方のことでうるさいな死後はつつしみなさい〉(『あそこ』2013)があったりするが、『光と私語』でも多く犬の歌が登場している。「飼いもしない犬」、散歩ですれ違った他人の犬なのか、野良犬を見かけたのか、ペットショップで対峙しているのか、状況は分からないが、自分が飼う予定もないのに犬に名前をつけてみる。
 この感覚はさっきの「だいたい鷺だから」に似ていると感じる。脚の長い鳥も、飼いもしない犬も、関わる気が最初からないのなら、だいたい鷺だと雑な把握をしたり、名前をつけてみて遊んだりしなくていいんじゃないか、と思ったりする。これは私の余計なお世話であって、別に好きに名付けてもいいと思うが、知ったこっちゃない世界に対して、やけに主体自身から関わりに行っている気がする。
 一方で、

  いないときのあなたのことをよく知らない。

 この作品(自由律の短歌として観たが川柳としても読めるかもしれない)は、分からないものは分からないものとして、それ以上踏み込んではいない。さっきの「だいたい鷺だから」のテンションで行けば、いないときのあなたはだいたい眠っている、とか言いそうなものなのに、である。

  いつまでも語彙のやさしい妹が犬の写真を送ってくれる

 この歌を見たとき、「いつまでも語彙のやさしい」かあ、と思った。微笑ましい歌のように見えるし、それでいい(この兄妹・姉妹の関係についてそれ以上深く踏み込まなくてもいい)ように思うが、どうしても気になる。今使っている言葉がやさしい(易しい・優しい)ならまだしも。妹が「妹」ではない場所(兄や姉に見せていない顔)でどんなことを話しているか、これからの未来どんな言葉を話すようになるのか分からないのに、「いつまでも」と言ってしまう。もし、「いつまでも使う言葉がやさしくあってほしい」というのならもう一言その意味が分かる言葉が欲しい。
 ただ、これについては、妹のことを何にも分かっていないような適当な兄・姉像を裏で書いている、とも読めなくはない。〈美少女にずっとならない妹をそれでも駅まで送ったりする/長谷川麟〉(第四回大学短歌バトル2018)という歌が物議を醸したことがあったが。愛着が変な形で表れていることを「いつまでも」で示しているとも読める。

  本は木々には還らぬとして(知らないが)あなたのことをあなたより好き

 まとまりのつかない文章になってしまったが、改めてこの歌を見る。「(知らないが)」が目を引く表現になっている。(知らないが)は上にも下にもかかっているような印象がある。知らないけど、あなたがあなたに思っている以上に、私はあなたの事が好き。知らないのに適当言うなという話だが、「だいたい鷺」の歌と同じように、そういう温度感で生活していこうよ、みたいなゆるい感覚が受け取れる。また、本当にそうであるかは分からないけれどそれくらい自分は好きなんだという、謙虚で微笑ましい言葉である。
 木から出来た紙、紙から出来た本。本がもとの木に還って行くことは無い。だからどうした、という話である。「(知らないが)」の感覚。本が木に戻らないことも別にどうだってよく(なんとなく素材としておしゃれ感・寂しさはある)、ただあなたの事が好きなんだと、がむしゃらに言う。

 知らないことを、だいたいで把握して、放置するようでいて、でも何となく自分から関わって、色々なことを言ってしまう。そういう余計さが、この歌をより良くしている。

記:丸田

春の獅子座脚あげ歩むこの夜すぎ きみこそはとはの歩行者 山中智恵子

所収:『紡錘』不動工房 1963年(確認は「山中智恵子全歌集」による)

星座を造るのは光の明滅を繋ぐ想像力です。とはいえこの想像力は、人間の溢れんばかりの創作意欲の発露ではなくて、未整理な星空の混沌への恐れと見ることが出来るのではないでしょうか。物語的な理解により安心したいが為に、古今東西の人間は光飛び交う星空の混沌に線分を引いた。既知の無数の物語を天球に貼りつけたのは、降り注ぐ無意味な星の光を怖がった人間の臆病さであるように思います。

黄道十二星座の一つ、日本では春の代表的な星座で、天体に疎くとも馴染み深い獅子座も、そのような星座の一つです。この獅子は、ネメアの谷でヘラクレスに棍棒で叩き殺された獣であるという意味付けが為されています。星の光を繋いだ線が造りなす獅子は、右を向き前脚を上げた状態で天に吊るされている。

山中智恵子は掲歌の中で、獅子座の獅子に「君」と呼びかけ「とはの歩行者」と言い替えていますが(「君」を任意の第三者と考えることも出来るけれども、まず想定されるイメージとして妥当なのは「君」=「獅子」だと思います)、確かに獅子座の獅子は歩行せんとしているように見えます。

山中は前脚を上げた獅子の静的なイメージから「歩行」という動的なイメージを束の間取り出して見せます。が、同時に「とはの(永遠、永久の)」という絶対的な静のイメージを冠することで、獅子を脱目的な、果てない歩行の牢獄に閉じ込めもします。山中によって、光の獅子は星辰瞬く夜空を永遠に闊歩することを義務付けられる。「この夜すぎ」に春の晴れた夜空を見上げれば、われわれはいつでもこの獅子を見ることが出来ます。

とはいえ、そのような見立ては取り立てて新しいわけではない。例えば絵画などの静的なものに永遠の動作を見出すことは、詩的な把握として例が無いわけではありません。しかしながらこの歌が優れていると筆者に思われるのは、下の句「きみこそはとはの歩行者」が、7音・7音から2音少ない5音・7音の音数により、組み立てられたことではないでしょうか。「とはの歩行者」にどこか寂しげな、欠落した印象が付与される。音を足すのではなく引くことで、韻律の面で意味の強度を上げるのです。

この歌は、永遠に目的地に辿り着かずに歩き続ける獅子を言祝ぐに相応わしいように思えてなりません。

記:柳元

調律師の感性を書きつけたメモを雪原に置いてきてしまったよ 服部真里子

所収:『行け広野へと』第三版、本阿弥書店、2018

 ジャンルは何にせよ、創作をしていると色々な他の情報がそのネタのように見えてくる。お笑い番組を見ていても、漫才やコントの構成、展開、話術、テンポなどなど、自分の創作に活かせるんじゃないか? という目で見てしまう。創作をするということは、世界全般に対して、新しいアンテナを張るようなものであると日々思う。

「調律師の感性」なんか、メモせずにはいられないように感じられる。詩的なものの電波を受信するアンテナがあれば、真っ先に拾うものだろうと思う。ピアノの弦と鍵盤、振動、音、調整……。天性の音感が無いとやってられなさそうなイメージがある。慎重で繊細で、感覚を研ぎ澄ませてやる作業。
 詩にするには格好の材料だろう。そしてそれをうきうきとメモした主体は、まさかの「雪原」というこれまた詩的な土地に置き忘れてしまう。

 このときの、「置いてきてしまったよ」という言い方はわざとだろうと思うが、若干の軽さがある。置いてきてしまったことを後悔するのではなくて、むしろ自分から望んで置いてきたくらいに、雪原に置き忘れたことをなんだか詩的になってしまったエピソードとして面白がっている感がある。
「置いて」という動詞の選び方も、忘れたとか失くしたよりも、雪の上にそっとひらひらと置いたようなイメージが喚起される。
 調律師の「感性」という言い方にもやや軽さがある。これは個人的に私だけが感じている印象かもしれないが、ここが作業過程であったり、洗練された技術であったりしたらすんなり納得する(メモも子細に記せる)が、「感性」というのは、なんとなく雑な感じがする。なんだかステキと思ってメモになんとなく書く。こちらが詩にしやすいものを勝手に引き抜いて勝手に作品にしている印象は拭えない。感性をなんとなくメモしてきたから、なんとなく雪原に置いてきてしまえるし、「置いてきてしまったよ」と言えるのだろう、と思う。例えばこれが「詩人の感性」であっても同じであって、もちろん感性が仕事の大事な部分にはなっているものの、その感性を最大限活かすための技術や努力の部分を外部の人はメモするんじゃないだろうか、と思ってしまう。

 そういう受けとり方をしたときに、この歌はものすごくナメている歌だと感じられる。「調律師」という素敵っぽい職業、感性をメモするという感性豊かそうな行為、「雪原」という詩語感たっぷりの舞台設定、「置いてきてしまったよ」というとぼけ方。

 一方で、これが本当に奇跡的に成り立った歌だとして読むことも出来る。
 本当に調律師の仕事について触れて、その感性がいかに魅力的で重要かを知って尊敬して茫然とメモしておいたものの、それが帰るときになって落としてきたと気づく、通ってきた道は雪原であったから、雪原に落ちたんだろう……。
 そんなことがあるか? と思うものの、もし本当にすごい確率でそんなことが起きたのだとしたら、「置いてきてしまったよ」と言ってしまいたくなる気持ちも分かる。ただ忘れただけだったのに、その奇蹟に主体自身も驚いて、「置いてきてしまったよ」と乗っかりたくなる感覚。

 私としてはこの二つの読みはちょうど半々くらいで存在している。韻律が定型に添っていないことも、この読みによって効果が分かれて、前者の方だと調律師の感性というセンスある材料に合わせてテクニカルな韻律にしたと取れ、後者の方だと本当に奇蹟だったから動揺して起こったことを矢継ぎ早に話している、と取ることが出来る。
 美しさを手ごろに詠もうとするとその手つきが透けて見えるのかもしれないとも思わされ、一方で本当の美しさというものは嘘っぽく聞こえるものなのかもしれないとも思わされる。非常に危ういところで揺れ続けているこの歌の像に、気になり続けている。

 主体はきっと、メモを置いてきてしまったことによって、「置いてきてしまった」という記憶が加算されて、より色濃く覚えていることになるだろう。私は、そういう意味で、服部真里子のこの歌を置いていこうと思っている。

記:丸田

緯をぬきとれば神の序列みえ異教徒のやうに明るい裁縫 山中智恵子

所収:『空間格子』日本歌人社 1957年

緯は「よこいと」とルビ。

織物を司るのは日本では天羽槌雄神である。彼女は天照大神を天の岩戸から誘い出すために織物をした神である。また希臘神話で織物を司るのはオリュンポス十二神のアテナ。アテナは人間アラクネーと織物勝負が伝えられている。織物が多神教的なイメージと結びつくのはこの例示だけでもある程度了解できるだろう。多神教においては女神が織物を司るのだ。一神教では神の中で分業が行われないから、多神教世界がここでは思われていると見るべきだろう。

そしてそのような神話的イメージと昵懇な織物から緯糸を抜き取れば、必然として経糸が残る。そこに束の間山中智恵子が視るのは「神の序列」。一見唐突に思えるが、縦に走る糸が暗喩として機能すれば上下関係のベクトルが思い起こされ、そこから神々の位階のようなものが想起されるのは困難でないのでないか。神話のイメージ群と瞬間の動作に類比を見出す山中智恵子の詩的筋力が「緯をぬきとれば神の序列みえ」という幻視を可能にしているのである。

普通感知することのない神の序列を見ることにより、どこか自分の信仰が揺らぐような感覚を覚えるか。あるいはそこまで行かなくとも多神教的な世界を垣間視ることにより、一神教的な世界の枠組な異化させしむる知覚が準備される。

この下準備により、下の句の具象が輝き出す。多神教的な神の序列の幻視体験が目の前の具体の織物に落とし込まれるのだ。織物の色彩が「異教徒のやうに明るい」のだと比喩が用いられ、織物にどこか開放的で健康的なエロティシズムが思われてくる。自分が信じる一神教の堅苦しい規律の息苦しさの外側にある、禁じられた快楽。偶像崇拝。不道徳。淫乱。そのような明るさが織物を彩る。束の間異教徒の仲間入りを空想しながら行う裁縫の快楽にうち浸る。

『空間格子』は山中智恵子の第1歌集である。1947年から1956年までの作品280首を採録している。序文は師である前川佐美雄。『空間格子』は数学用語で結晶体の意味。

記:柳元

ちみつななみだ、ちみつなこころをわすれずに。永遠に準備中の砂浜 藪内亮輔

所収:『海蛇と珊瑚』KADOKAWA、2018

 緻密さ。緻密さとは、緻密であればあるほど、気づきにくいものなのかもしれない。

 準備中の砂浜は、のちに来る人のために整備されてあわただしく可哀相な印象があるが、「永遠に準備中の砂浜」となると、人も入ってこない、本来の砂浜に戻っていくような感覚がある。

 心も、砂浜と一緒で、人々や色々な感情が訪れにやって来る観光地であったりする。
 藪内亮輔の短歌には格言や箴言のようなものが多く、読むたびに心にしみる短歌が変わっていたりする。心の緻密さを忘れずにいたい。

記:丸田

結婚が許されないなら前ぶれなしに心中湾にセスナをつっこんで二人で死ぬつもりです 松平修文

所収:『月光』1988年春号

心中というとやはり鬱々と暗いイメージが付き纏う。愛しているパートナーとの未来が、金銭的行き詰りや家柄の不釣合い等、ある現実的な事情で完全に閉ざされるがために、そのような未来に二人の死をもって否を突きつけるのが心中であろう。彼らは死後ロマンティズムの世界に棲むのである。とはいえ現実世界における二人の生に終止符が打たれる以上、リアリスティックな冷笑主義に与して言えばこれは愚行でしかないわけだが、身分制度や家柄などがまだ重要な意味を持っていた近世近代においては心中は、恋の成就を許さない社会に対する有力な抗議の手段であった。死体の発見者は陰鬱な気持ちにならざるを得なかっただろうし、憐れな二人の行く末に心を寄せもしただろう。心中は普通、悲劇的な色彩と文学的な情緒を帯びるはずである。能や戯作も好んで心中を材とした。

しかし修文の心中はひと味違う。湾にセスナをつっこんで二人で死ぬつもりなのである。前触れもなく。なんと豪勢で華やかな事だろう。二人の最後の愛の言葉はプロペラの音にかき消される。○○だよ。え。◇◇だよ。何て言っているの、聞こえない!次の瞬間盛大にあがる水柱。

セスナの運転免許を持っているくらいだから社会的な身分としてはそう悪くもないだろう。否、だからこその心中なのかもしれないが。当人たちは至って真面目で実直に決意を語るのだが、どこかユーモラスである。

長律にも触れねばなるまい。松平修文には稀に長律を用いた散文的な短歌がある。とはいえ修文は基本的に定型にて歌を為すし、掲歌もそういう歌群の中にひっそりと交っているためにあまり違和感がない。読んでいるうちに妙に長さを感じ、指折り音数を数えてみると破調に気付くという感じである。

目のくらむやうな紫やももいろの野や森をとほり病院へ連れられてゆく/松平修文

同じ連作にこんな破調もある。サイケデリックな病院道中である。治るものも治らなさそうである。

記:柳元

生きていることはべつにまぐれでいい 七月 まぐれの君に会いたい 宇都宮敦

所収:『ピクニック』現代短歌社、2018

 生きる、生きているということに、強く理由を求められているような感覚になることがたまにある。なぜ生きるのか、なぜ今生きているのか、その原動力は何か、動機は何か、と執拗に尋ねられていると思うときがある。そして、それが言葉に出来ないと、理由もないのに生きているのかと責められているような気持ちになる。車に乗るなら免許が必要だ、と同じくらいの熱で、生きるのであれば生きるぞという強い心が必要だ、と言われているような気持ち。何らかの意味があって生きている、という考え方からそもそも、自分には馴染まないものだといつも思っている。
 掲歌を読むと、それをさらっと掬ってくれるような気持ちになる。「べつにまぐれでいい」、偶然生きていて、それが偶然続いている。それ以上のことは良いんだと言ってくれている気持ちになる。「べつに」という言葉が出てくるのも、「まぐれ」以上のことを求めている人がいるから、だろう。無理はしなくていいのだと楽な気持ちにもなる。

 ただ、この歌には少し気になるところがある。最後の「まぐれの君に会いたい」の部分で、何か違和感がある。おそらく、純粋に優しい気持ちから発された言葉だろうと推測できる。だから、その思い自体にどうこう言うつもりはあまりないが、もし自分がこの主体に「まぐれの君に会いたい」と言われたら、素直にありがとうとは言えない気もする。

 というのも、主体が、生きていることはまぐれでいいのだと思っているということと、「君」側がまぐれで生きているかどうかは別の話ではないか。
 別にまぐれで生きていていいんだという励ましは、別にまぐれでもいいけどそれ以外でも何でもいいんだよ、という励ましだと思う。だから、ここは「生きている君に会いたい」で充分じゃないのか、と思う。なぜここが「まぐれの君」に会いたいと変形されてしまうのか。今「君」側が大変な状況に居て、生きることに苦しんでいて、だから最低限「まぐれ」でも生きている君に会えたらそれだけで良い、ということだろうか。

 ここが「まぐれ」になった他の理由を、短歌の創作面から邪推すると、リフレインというか、そういう技術的なところが大きいのではないか。「べつにまぐれでいい」の跨いでいる韻律や、二つの一字開きの間に「七月」を差し込むテクニックに、その気配がする。この歌にとっては、生きていることに「まぐれ」という言葉を付けられたことが何よりの勝利であり、それをさらに印象付けるために繰り返して「まぐれの君」という少し変わった表現にして表したのではないか、と私は考えている。「まぐれで君に会いたい」だと意味は変わるが「まぐれ」という言葉は自然に働くのに対し、「まぐれの君に」はやはり詩の力が働いている。個人的に「七月」という謎の季節のカットインも、夏のかっこよさをなんとなく引くためだけの道具立てなのではないかとさえ思ってしまう。

 ところで、宇都宮敦の歌において、他者について語るとき、必要以上の情報は割かれない傾向があると感じている(以下引用はすべて『ピクニック』より)。

  ひたすらにまるい陽だまり ひまわりの種の食べかたを教えてくれた
  とうとつに君はバレリーナの友達がいないのをとても残念がった
  左手でリズムをとってる君のなか僕にきけない歌がながれる

 他者には他者の思考や感覚があることを分かっていて、それ以上は踏み込まない、という印象がある。例えば〈左手で〉の歌が、最後が「僕の知らない歌がながれる」であれば、踏み込み度合いは変わる。あくまでも「きけない」という事実だけでとどまっている。

  新幹線から見えたネコ 新幹線からでもかわいい たいしたもんだな
  ネコかわいい かわいすぎて町中の犬にテニスボールを配りたくなる
  カーテンが光をはらんでゆれていて僕は何かを思い出しそう

 こういう自身が思ったことをそのまま喋っているように言うところが特長である作家だが、この二つが混ざったときに、違う印象の歌が生まれている。

  コインランドリーで本を読んでいる もちろん洗濯もしているよ
  三月のつめたい光 つめたいね 牛乳パックにストローをさす

「もちろん洗濯もしているよ」という弁明、「つめたいね」という確認・共感は誰に対してなされているのか。自分自身とも考えられるし、書かれていないがその場にいる第三者にとも、読者に、とも考えられる。このとき、「もちろん洗濯もしている」と言わないといけないのは、「コインランドリーで本なんか読んで、まさか洗濯はしてないなんてことはないよね?」という声があったからだろう。もしくは、そういう声がありそう、と思って先回りして言っているかだろう。その声を、主体はどこから感じているのかが分からない。ずっと独り言を言っているようにも、恋人に言っているようにも、読者に語り掛けているようにも見える。このよく分からないところからの声に応じている主体、という歌の揺れ具合に魅力があると言える。

 依然として、私は「まぐれの君に会いたい」には引っかかっている。他者が出てくる歌で、「まぐれの君」と言うのは、らしくないように感じる。「会いたい」という自身の感情が勝って、「ネコかわいい」くらいのテンションで「まぐれの君」が出てきたのかもしれない。
 よく分からない声に応じる、という点で言えば、「べつにまぐれでいい」も、どこから来ているかは色々読みようがある。現代社会全体の雰囲気に対してか、生きづらい「君」への励ましなのか、主体自身の思想か、などなど。それによっては、「君」が単に一人を指していないようにも感じられる。もっと言えば、「君」と言って指すような人物は最初からいないかもしれない。
 この歌自体が、まぐれで存在しているような、そんな気もしてくる。

 記:丸田