君の永遠は力試しに費やしてみてほしい 飾り天使のコーラス・ワーク 瀬口真司

所収:『ねむらない樹』vol.7(書肆侃侃房、2021)

 連作「プライベート・ソウル」より。「永遠」という単語の登場からのびやかな歌かと思いきや、ぎゅうぎゅうに詰められた上の句はものすごく速く読むことを要請する。そして上の句をどういう速度やリズムで読もうかと読者が苦悶しているなか、挑発するかのように「飾り天使のコーラス・ワーク」という綺麗で分かりやすい七七が後に控えている。

 まず最初に引っかかることになるのは助詞「は」だろう。費やす、という動詞から考えれば、「時間を費やす」のように「を」が来るのが居心地が良い。「君の〇〇を費やしてみてほしい」、と簡略化すれば意味は滑らかに入ってくる。ここが「は」になっていることで、一旦文が跳ねる印象が生まれる。跳ねるという表現が合っているか分からないが、「永遠」という言葉をより強調しようとして話そうとしているのが分かる。友人と会話するときの「今日面白かった話は~」みたいな「は」に感じる。この一瞬跳ねて強調される感じが、さらになめらかさを阻害する(これは人によって受け取る印象は変わるだろう。こういう取り立てて言う「は」が自然に聞こえる人であればそこまで気にならないかもしれない)。
 なめらかさで言えば、「費やしてみてほしい」という部分も気になる。この勧誘の言い方からすると「君の永遠を(君が)費やしてみてほしい」ということになり、ここは「君は君の永遠を費やしてほしい」くらいでもよかった話である。これがぎゅっと凝縮されて(作者的には「刻んでいる」のかもしれない)、強引に「力試しに」が挿入されている。一見喋っているようであるが、ここには強い調整の力が入っているような気がする。小説の中で、登場人物が小説外の人に向かって話しかけているような妙な感じが。

「力試しに」。「君」にある永遠とはどういうことなのか、本当に永遠があるのか、一瞬に見えかくれする永遠性のことを言っているのか、それすらこちらは分かっていないというのに、永遠を費やすことが「力試し」のひとつになるという。ここでの「力試し」がどれくらいのテンションなのか(例えば、力試しで一問数学の問題を解くのか、力試しで重いものを持ち上げてみるのか……)によるが、そんなことで「永遠」を費やしてしまっていいのか、という漠然とした不安がある。これが、「永遠を費やしなさい」と命令されていれば、そういう物なんだと納得できそうだが、「力試しに」「してみてほしい」とこちらが責任を負う形でさりげなく言われると、なお不安である。
 一体永遠を費やして何が分かるのか。どうなっていくことになるのか。「君」に対して話しかけているこの人物は、既に費やしたことがある何か達観した人なのか、何も知らないのに野次馬やファンのような感覚(うちわで「ウィンクして」みたいな)で言っているのか。

 永遠は費やしても無くなることのないものなのか。

「力試し」という単語を聞くと、私はそこに他者の存在を見る。「肝試し」なら、自分がどれくらい怖がらない心を持っているかという個人の挑戦のニュアンスがある。一方「力試し」となると、他の人が複数いて、その人たちにもさまざまなレベルがあって、自分は今その人たちの中でどれくらいのレベルに位置しているのかを測る、という意味になってくると思う。学力を試すために模試を受ける、のような。
 みんなは、どれくらいの「力」があるものなんだろうか。みんなも、力試しのために、所持している永遠を費やしてきたのだろうか。

 生きている時間を大切にしなさい、とか、永遠なんてものは無い、みたいな言説が、おもいきり捻られた形で現れているように感じる。だから、「力試し」の言い方も、「してみてほしい」の優しいふりをした言い方も怖く感じる。この人物はどんな表情で言っていて、今まで何人にこんなことを言ってきたのか。

「飾り天使のコーラス・ワーク」は、急に短歌のフレーズのように聞こえる。やはり七七の影響は大きい。「飾り」という言葉も、「力試し」とほとんど同じ色である。なんだか、「飾り天使」「天使のコーラス」「コーラス・ワーク」とどの部分を取ってみてもちょっとずつ鋭さがあり、上の句を承けるには随分意地の悪い言葉である。
 下の句は、上の句の背景としてあるのか、意味としてあるのか、象徴としてあるのか、到着先としてあるのか、関係は無いが裏で繋がっている映像なのか、私には分からない。ただ私には、「費やしてみてほしい」と言っている人物の顔がうっすら笑っていることだけが、はっきりと分かった。

 この連作内での次の次の歌〈祈りまで脂まみれになっていく夜景のタワーみずからとがる〉を意識すると、より鮮明に見えてくるものがあると思う。

 かなり難解で挑発的で、速くて、かっこいい歌だと思う。「コーラス・ワーク」の落とし方も、作者の(リズムの上での)(カタカナや語の配置上の)柔軟性を感じる。

 またこの歌の話からは逸れるが、この連作はもっと多い歌数で見たかった。七首しかないとどうやっても窮屈である(短いことを分かっていながらそろえた詠草であろうから、これはこれで見ていて面白かったが)。とくに瀬口の歌は歌数が並ぶことによって生まれる加速や、速度のばらつきによって生まれる浮遊感に特長があると私は思っている。笹井賞受賞者の新作で個人賞は7首というのがなかなか渋いなあというのが紙面に対する正直な感想だった。ふつうに呼ばれた歌人の20首より、受賞者がどんな態度でこれからやっていくのか、それが示される新作の20首の方を私は見たかったかな、と思う。といっても雑誌全体では良企画が盛りだくさんであったため、これからもまた期待して見ていきたい。

記:丸田

星空を歩いて茄子の無尽蔵 谷田部慶

発表:第24回俳句甲子園

「星空を歩」くと言表するときの詩的態度の潔さに感銘した。むろん我々はここで星辰の輝きを頭上に仰ぎながら地を歩み始めるわけだが、氏の表現により天は地に、地は天に転回する。言の葉に鬼神を和する力があるというが、氏の措辞は天地を混融せしめ、あたりは漆黒の闇と星々の輝きに満たされた豊饒な空間となる。歩め、その冷え冷えとした空間を。足裏は銀河の照り返しに明るみ、如何なる星雲を目指しあるくか。

大峯あきら〈虫の夜の星空に浮く地球かな〉橋閒石〈銀河系のとある酒場のヒヤシンス〉生駒大祐〈天の川星踏み鳴らしつつ渡る〉などの先行する銀河在住者の佳句とも響き合いながら、にわかにわれわれは星空の歩行者たる様相を帯びる。

加えて、「茄子の無尽蔵」という硬質な叙情は、ともすれば甘ったるいものに陥る可能性のある「星空を歩いて」という措辞を厳しく律しつつ、消尽することなき茄子の物質性の豊饒さを獲得することによって強度あるテクストへと見事に昇華させる。茄子の深い紺が秘めるものを宇宙へ抽出拡散に成功した取り合わせと言えよう。句全体としての景としても、頭上に星空の広がる茄子畑というアリバイを仕立てていることがこの句の可読性をあげており、ぬかりなき巧みな措辞さばきがある。

生活者としてのインティメイトな魅力はないが、ここには俳句という形式の抱え持つミクロコスモスの可能性そのものがある。

掲句は第二四回俳句甲子園の優秀賞。作者は開成高校二年生の谷田部慶氏。高校生の皆様、お疲れ様でした。

記:柳元

虫の夜の星空に浮く地球かな 大峯あきら

所収『星雲』ふらんす堂・2009

残暑とて秋も深まれば、夜風は確実に冷ややかな硬質さを帯びてくる。となると蟋蟀、螽斯、松虫に鈴虫、おのずから様々な虫の声に気付かれるだろう。世に充ち充ちてくる虫の声ごえに没入してゆくとき、その命の音響のなかで、星空も迫りくるような物質感をもって迫ってくる。そのときふと気付けば宇宙飛行士のごとき視点から、わたくしは地球を眺めている。見上げていた星空のその星の中の一つがいつの間にか地球なのである。この視線の移動というよりも、身体そのものが宇宙に浮きあがるような感覚はやはり独特である。かような視座変換のダイナミズムを持ち合わせる句はあまり覚えがない。たとえば正木ゆう子〈水の地球少し離れて春の月〉は一点から静的に眺めているように思われる。しかし掲句は虫の声への没入を媒介として動的に地上から宇宙へと移動するのである。

大峯あきらは昭和4年(1929年) -平成30年(2018年)奈良県生まれ。生涯を吉野に暮らす。浄土真宗僧侶かつ哲学者で専門はフィヒテや西田幾多郎。俳句は高浜虚子に師事、昭和28年波多野爽波の「青」創刊に参加。昭和59年「青」同人を辞し、同人誌宇佐美魚目らと「晨」を創刊、代表同人。毎日俳壇選者。句集に『吉野』『群生海』など。

記:柳元

身にしみて風景が面倒になる 佐藤文香

所収:『菊は雪』(左右社、2021)

 句集を読んでいて、はたとこの句に立ち止まって、とりあえずメモした。その後読み切ってから改めてメモを見つめ、不思議な気持ちになった。

 この句に立ち止まったのは、完全な共感からだった。「身にしみて風景が面倒になる」。この怠惰な感じ。
 私はこのごろ俳句が作りにくくなっている。俳句の何が面白くて、何を面白いと思って、何を完成させようと思って書いているのかがぽっかり分からなくなってしまったし、かつてはあったであろうそういう感覚を、思い出せないくらいまで遠くに置いてきてしまった。今までにもスランプ的なものはあったが数日すれば治っていたし、すぐに復活して作っていたが、今回はなかなかしぶとく、俳句を書く理由ごと消滅してしまった気分(短歌の方は好きで順調に書きつづけられている)。

「風景が面倒」。この感覚がたまに訪れる。風が吹いてきて、雨が降ってきて、急に晴れて、花が揺れて……そんな露骨な「風景」を目撃すると、暗に「俳句を書け」と要請されているようで不快になってしまう。もともと自分は風景の描写に徹して書くタイプではなかったので傷は浅いが、それでも、「風景」には嫌気がさす。
「面倒」。これはかなり絶妙な表現で、書き手が発する表現だなと思う。ふつうの人(というか何というか、風景を受けとって自分の表現力をもって外に出す必要がない人)からすれば、「面倒」にはならないだろう。鬱陶しいとか、気持ち悪いとかになると思う。俳句を読んでいて常々思うが、あまりにも風景が多すぎる。季語なんてほとんどが風景である。すぐに映像を立ち上げようとする。誰がどう思ったとか、そういう内的な話は少ない。
 いつだったか、誰かと「水温む」という季語について話したとき、「温かくなってきた嬉しさが水量から分かる喜ばしい季語」みたいなことを言われたのを覚えている。本意的にはそうなるんだろうか。この「本意」とやらも未だにいまいち納得できていないが。たしかに嬉しい気持ちで温んできた水を見つめる人はいるだろうし、そういう気持ちで詠まれてきたのだろうが、私は「水温む」には恐怖を覚える。温んでくる、ということに生理的な(?)気持ち悪さがあるように感じるし、強引に春の陽気さでくるまれていくその目に見えない力(かつ、そういう力に全身を委ねて幸福になろうとしている気持ち?)が怖いと思う。
 そこで「水温むのが怖い」とはっきり書いたとして、それが面白がられることはそうないだろうと思う(残りの音数で最高に面白く書けば面白くなるだろう、そこを模索していくのが正しい在り方なのかもしれないが)。というのも、それは、「水温むといえば嬉しい感情を示している中で、それを裏切っていることの面白さ」と取られてしまうからである。わざわざ普通とは違うアピールをしている、とこちらからすると厄介な曲解をされることになる。あなたがどう思っているかはあまり知ったこっちゃないんですよ、みたいな雰囲気になってしまう。
 だから、感情を詠んだ俳句は風景に対してというよりは、自分自身のものすごくパーソナルな事情において(恋とか親の死とか)詠まれることが多いと思う。そこにさりげなく季語が添えられる、くらいで。

 私は、とにかく俳句の中で感情の話をしたい! というわけではない。人の感情が消えて、風景だけが残る美的さに惹かれるときも多々ある。が、風景から感情が読まれていく際、「この風景が来たらこの感情」みたいなものがテンプレートとして出来上がってしまっているような気がして、「風景」だけを書いたものであっても、同じくらい「感情」に見えてしまう。し、そう見られていることを苦痛に思ったりする。私としては気持ち悪い単語なのに、読み手は綺麗なものだけを想像してしまう、そして気持ち悪さを表現しようと思ったら、音数的に無理、みたいなことが多発する。やがてそういう個人の独特な感情を表現することがどんどんなくなっていって、「風景」に(または「読まれてきた風景」に)順化して、「風景」の中でちょっと面白いことでも言うか、くらいになっていく。また、「季語」は、それを、推進するものであると思う。「季語」を使う限り、そうなっていってしまうのではないかと極端なことまで最近は思い始めている。

「身にしみて風景が面倒になる」、ノーマルに読めば、この「風景」は純粋にふつうの風景であればあるほど面白くなっていく句だろうと思う。ただ今の自分からすると、この「風景」は、裏に感情が透けている「風景」であり、それは「季語」や「俳句」に替えることが出来る。「身にしみて」、私も「面倒」に思う。

 ただ、句集を読み終えて改めてこの句を見て不思議だったのは、この句が終わっても「風景」を詠んだ句がどんどん続いていくことだった。「身にしみて」というほど、「面倒」だったのに、そのわりにはすぐに「風景」に戻っている。これは、面倒だとこちらが思っていても暴力的なまでに「風景」は連続して出現する、ということを言っているのか、その瞬間は面倒だったがすぐに気が変わってやっぱり「風景」にもいいところはあるよね、となったのか。「風景」は面倒だと思ったが、「風景を書くこと」は決して面倒ではないとして書きつづけることになったのか。

生きるの大好き冬のはじめが春に似て/池田澄子〉私は池田澄子の句の中でこれが一番好きで、とてつもなく明るい句にも思えるし、とてつもなく暗い句にも思える。「大好き」と満面の笑顔で言っているようにも思えるし、全力で皮肉っているようにも見える。「冬のはじめが春に似て」は、固まった「風景」を揺り動かしているのだと、今の私は希望的に読んでしまう。見かけだけの「大好き」ではない(だろう)ところに、強く惹かれ続けている。
 本句集の「菊雪日記」にも書かれていた『菊は雪』という一見無茶なタイトルに、私は同じような気持ちを抱いた。勝手に励まされたような気持ちになる。
「風景」に立ち向かう方法は、私の中にもまだあるのかもしれない。

『菊は雪』では他に、〈インバネス時間はいくらでもあるから〉、〈きつね園きつねのなみだこぼれけり〉、〈夏終はる月間たくさんのふしぎ〉、〈ゆめにゆめかさねうちけし菊は雪〉をメモした。俳句プロパー(?)とはまったく違う傾向の選になっているかもしれないが、それぞれ今の私に強く響くものになった。

記:丸田

広島や卵食ふ時口ひらく 西東三鬼

所収: 『三鬼百句』現代俳句社 1948

言わずと知れた句ではあるし、たくさんの評が書かれているであろうこの句に今更私が付け加えることはないのだが、この時期に読むことに意義があるだろうと思い取り上げる。

1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されてから約1年が経った広島を実際に西東三鬼が訪れた際に書いた句である。
その時に西東三鬼が見た広島の惨状は想像する他ないが、 1998年生まれであり戦争を知らない私がどれだけ想像しても足りないだろう。そんな中でもこの句が私の胸に迫ってくるのは「卵食ふ時口ひらく」は生き残った人間が生きてゆく描写であり、それは今生きている自分自身のこととして受け止めることができるような気がするからだ。

私は「生き残った」わけではなくただ「生きて」いる身だ。それでも8月にゆで卵を食べる時に「生」の重みを感じずにはいられない。

記:吉川

日本脫出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも 塚本邦雄

所収:「塚本邦雄全歌集 文庫版 第1巻」2018、短歌研究文庫(初出は『日本人靈歌』1958、四季出版)

もう直截的に入るが、近ごろこの歌をなんべん唱えたかわからぬ。すべてが馬鹿馬鹿しいと投げやりに言い捨ててもその響きは弱弱しく、すべてが無効化され、諦念へ行き着くしかないように見える。もはや空間の何もかもが空虚さに傾いて、ただ虚ろな彼方へすべってゆくしかない。

どんな言表も、幾重にも張り巡らされた言説の網目に発話する前から絡めとられているし、そしてそれと切り離して語られたがる「パンとサーカス」の健気なサーカス演者も、サーカス演者を「パンとサーカス」から棚上げして表層を掬い取り批評し得ると信じるすべての感動家も、冷笑家も、たぶん同様に、むなしく、意味のない彼方へ押し流されているだけだ。もう自分の感情すら自己の権能にないから、予定された調和を届けられる場所に居続けることへの嫌悪感すら持ち得ない。

この空間においては塚本邦雄の「脱出したし」という身振りすら、ただちに言説に絡めとられる。というか絡めとられるために発話されると見るべきだろう。「皇帝ペンギン」も「皇帝ペンギン飼育係り」もすでに実存でなく記号が機能が本質が先立っている逆サルトル状態である。皇帝ペンギン(=天皇)は日本という空間の磁場なしに存立しえないsymbolである。そのsymbolの飼育係(天皇を天皇足らしめているのはわれわれなのだから、これはぼくたちであるとも読み得る、天皇の嘴に鯵を投げ込んで飼い太らせているのはぼくたちである)も、言説がすでに身のうちに語り込まれ編み込まれている、言説実践体なのである。

だから塚本邦雄のこの歌は、そもそも脱出不可能な、とうに網目に絡めとられている者たちが、幾分かの愛嬌と純朴さだけを頼りに、むなしくも脱出をのぞむという道化を演じてみせること、それ自体であり、そのfarceの切実さこそ、乾いた、けれど確かな笑いに繋がるのであろう。

動物園あるいは水族館の衆愚的光景の表層もまた魅力的で、ぼくらは炎暑炎天に弱った鳥の群を思い、そこにしばらく滞留したってよい。疲弊しつつタイルをブラッシングするあわれな飼育係!つまり、ぼくが示したような、天皇がどうこうだとかいう窮屈な暗喩の歌の枠に押し込めるべきだとは微塵も思わない。しかしだからといって意味は分からないけど魅力的な歌だとかいう、connotationの深みへ降りてゆくことを放棄する痴呆的読解に与するのも、もはや逆説的な意味を持つことすらない。

記:柳元

鮎呑むと鵜の背に燃ゆる線の見ゆ 加藤楸邨

所収:『加藤楸邨句集』(岩波書店 2012)

一本の線が強靱な力をもつ。単純だからこそ動かしがたく、手元のささいな揺らぎで主題も、そこに秘められた音楽も、なにもかもが変質してしまう。クレーやピカソの線描を見ていると、不安に似た、しかし安らぐような感想を抱く。美術に疎いため、さっぱり分からないものもあるが何となくそう思う。

今日イサムノグチ展に小一時間身を置き、分からないながら作品の間を行ったり来たりしているうちに、似たような感想を持った。そしてそれは、楸邨の『吹越』を読んだ時に感じたものと深く通じているように思えた。

楸邨は鵜の背に燃える線を見ている。同句集には〈つやつやと鵜の背鮎の背さびしけれ〉の句があり、鵜の濡れた背は楸邨にとって寂しさを思い起こすものなのだろう。しかしこうした感慨は人間に近いところで生じる。掲句は人間の理屈を離れて自然の側に沿う楸邨の眼が思われ、楸邨は鵜の背という対象を一本で描き切るような線を取り出している。

イサムノグチ展にも様々な線があった。峻峭とした線、まどかな線、おなじ丸みを帯びていても、艶っぽいものもあれば賑やかな印象のものもあった。しかしどの線も雄弁に語りかけるのではなく、まなざしを投げかけ、そのまなざしがそれぞれに引力を持つ。

楸邨の線は線から広がり、鵜の寂しさ、または鵜にとどまらない自然の寂しさへ到達しようとする。言葉で説明してしまうと嘘になってしまうような、一箇の、一瞬間の線がさりげない手つきで描かれている。

見えるはずのない生命の姿を一筆書きに描き出す。そこには居丈高な物言いと異なる、自然に対して敬虔な態度があるに違いない。単純な線に至るまでの凝視はその態度を持ち続けるところから生まれて来るのだろう。

記 平野

夕日ふんだり夕日けったりする河原にておひらきになんのを待っとった 吉岡太朗

所収:吉岡太朗『世界樹の素描』(書肆侃侃房、2019)

「不自由律」の章から一首。この不自由律という章名、不+自由律のように見えるが、おそらく不自由+律でもある。あっさり7首で次の章へ移ってしまうが、このタイトルは惹かれたし、もっと読んでみたいと思った。

 この歌集は基本的に全編方言で記述されている。関西方面の方言。私自身も関西の方(といっても四国)出身なため流れるように読めた(まったく関西弁に対する知識? 感覚? がない人にとってはかなり読みづらいものになっているのかもしれない。そのあたり関東出身者に聞いてみたい)。
 一応、「なんのを」は「なるのを」や「なっていくのを」を意味し、「待っとった」は「待っていた」を意味する。

 この歌の不思議なところは、関西弁によって微妙に余韻が変わってくるところである。
「夕日ふんだり夕日けったり」が比喩なのか本当の行為なのかは分からないが、そういう遊びや空間が終わるのを主体は待っていた。ふつうに考えれば、おひらきになるのを待つということは、早く終わってほしいということで、苛立っていたり心ここにあらずであったりする。
 ただ私がこの歌を読んで感じたのは真っ先に寂しさだった。その理由として大きかったのは「夕日」という寂しさを演出する材料と、「待っとった」の言い方だった。内容的には早く終わってほしいと言っている、それは分かっているが、何故か「終わってほしくなかった」みたいな感情が伝わってきた。これは単に、私自身がこの方言になじみがあって、懐かしさを覚えた(なつかしいものは簡単に寂しさを連れて来る)からなのかもしれない。
(個人的に思う)関西弁がもつ溌剌で素朴なイメージが、逆の方向に振れて、なんとなく寂しく思ってしまった。

 そうすると、「ふんだり」「けったり」が「踏んだり蹴ったり」というフレーズにも見えてくる。サッカーみたいな響きなのに、心に何か悩みを抱えているような感じもする。「なんのを」「待っとった」の方言は意味だけではなく音の面でも効いている。「ふんだり」と「なんのを」の撥音便の雰囲気、「けったり」「待っとった」の促音の飛ぶ感じが共通している。
 関西弁といえば漫才のようなものを想起する人も多いと思うが、関西弁で話のスピード感が生まれるのはこういう撥音や促音でリズムが出来てくるからなのかもしれないと短歌とは関係ないところで思った。

 私は、見た目が完全に明るいのに、主体の言い方から察すると、かなり寂しい歌なのではないかと思ったが、別に寂しさに引っ張られて読む必要もない。
 冷静に考えて、「夕日ふんだり夕日けったりする」とはどういうことなのか分からない。夕日の下、河原でサッカーをしている、のような意訳を頭の中でしていたが、夕日をサッカーボールとして踏んだり蹴ったりしているのかもしれない。そうなると、そりゃ早く「おひらき」になってほしいわな、とも思う。そんな恐怖体験もなかなかない。
 比喩的な要素が少し混ざっていて、河原でサッカーをしている、そのサッカーに夕日が時折重なって、夕日を蹴っているように見える、位のことだろうと考えるの自然である。ただこの場合気になるのは、じゃあなんで「おひらきになんのを待っとった」のか。そんな眩しい子どもたちの(子どもたちかどうかは決まってはいないが)風景にいて、なぜ帰りたがるのか。自分も混ざりたいとか、終わらんとってほしいとか、そういう願望の方向ではない。
 ふつうに読んだとしても、やっぱり主体には寂しくなる事情があるのでは……と私は思ってしまう。
 もしくは、他人が愉しんでいるのを見たら/楽しんでいるグループに自分が参加させられていたら、早く終わればいいのに、それの何が楽しいんだと思うような斜に構える性格があるのかもしれない。しかしそれにしては「夕日ふんだり夕日けったりする河原にて」は好意的な語り方だとは思う。

 なんとなく見えるようでなんとなく見えない、明るそうで寂しそうな、魅力的な一首だった。

 ところで、この歌集を読んでいて個人的に面白かったのは、方言がいきいきと使われている(方言が主役)ものもあれば、方言が文語みたいに使われている(方言はサブ)ものもあるところだった。
 挙げた踏んだり蹴ったりの歌は、中間くらいだろうか。
 例えば巻頭の一首は〈月光がこんなにふかいところまで泳ぎにきとる霜月の森〉。「きとる」(来ている/来ていた/来た)が方言の部分。これはかなり「短歌」という感じがする。文語の使用と同じで、とりあえず文語で統一しとくかみたいな、「調整」感がある。私がふつうに関西弁風に話すとしたら、「月光がこんなにふかいところまで」と律儀には言わない。「こんなに」の「に」が特に(ただこれも関西の地域差があるのかもしれない)。あと「月光が」とも言わないだろうと思う。
 方言というと喋っているように思ってしまうが、喋ってはいない、書いているということだろう。もしくは、心のなかで喋っている。だからスムーズに喋っているようで急に短歌みたいな詠い方をする感じがして妙な感覚になることがある。
火と睦みあう冬空をひたすらに見る みるだけの生きもんとして〉これとかもそうで、「生きもの」としていても普通に読める。もちろん、「生きもん」と関西弁であることによる効果もあり、それを加味して読むことも出来る(そうするのがマナー?)が、これは全首方言にしておこうという調整が見える。それが悪いとは思わないが、「短歌」の引力が方言の喋りを不思議な方向へ変化させているような気がして、私はかなり面白く感じた。
ずっとおっても一日ずつしか会えんくてケージに紺の布かけわたす〉これは上の句は方言のスピード感が生き生きとしている。「一日」に何もルビは振られていないが、自然に「いちんち」と読んでしまう。読ませるスピードと迫力がある。しかし(しかし?)、下の句になって急に短歌になる。「ケージに紺の/布かけわたす」と一拍空いて見える。それは「会えんくて」から急に切れて景色の物の話をし出したのもあり、「かけわたす」という短歌っぽい動詞の選択をしていることもあり、「紺の布(を)かけわたす」の77のリズム合わせが見えていることもある。

 方言で完全に喋っているように見えるもの(「短歌」からは離れている)、方言で喋りつつしっかり短歌であるもの、短歌のなかで方言に変換できるものを方言にしただけのもの、などのグラデーションで、方言アンソロジーみたいなものがいつか組まれたら面白いのになと勝手に思った。

記:丸田

新しい駅が夏から秋へかな 上田信治

所収:『リボン』邑書林  2017

助詞が切字の「かな」に接続して1句が締められるという、あまり見ない形の1句。

今まで俳句を読む中で形成された印象として、切字の「かな」は他の切字と比べると一番静的でゆったりとした余韻を残すというものがある。(「や」や「けり」はスタッカートとでも言えばいいのか、余韻に重きを置かない切字のような気がする)
そんな認識を持っているので、この句の形は新鮮に映る。

「へ」は動作の帰着する場所を示す助詞で、句の意味的には「夏から秋へ」のあとに、(季節が)「移る」といった動詞が省略されていると考えることができる。だから、この句の「かな」は文法的には助詞を受けているのだけれど、印象としては動詞も受けている。動詞+「かな」というのもまたあまり見ない句の形で、「かな」で終わる有名な句がもつ地に足の着いた余韻とは違う印象を与える。

「が」というライトな助詞の選択、そして「へ」の終わり方がもたらす動的な印象がもたらす軽み、そして肩透かしを食らう「かな」の用法が夏から秋へと過ごしやすくなっていく気持ちの良い空気感によく合っているように感じる。新しい駅のさっぱりとした印象もまた気持ちよい。

記:吉川

いよいよネと言えばいよいよヨという 松永千秋 

所収: 小池正博編『はじめまして現代川柳』(書肆侃侃房、2020)

 この句の可笑しさは、喋っている二人のその顔の方向にあると思う。

 この「いよいよ」が、どういう局面、状況において出てきた言葉なのか、という一番重要な想像については、読者それぞれに委ねたい。私は古い少女漫画の主人公をいじめるクラスメイトA・クラスメイトBが、主人公を最も追い詰められる方法を考えて、文化祭の当日にそれを決行する気でおり、その日がようやく来た、くらいのテンションで読んだ。とにかく、悪者たちだなとは感じた。「ネ」「ヨ」がありうるのは、私の中では悪者か老人か児童かだった。これをもっと健全な方向に、たとえば同僚と数か月かけて綿密に練ったプロジェクトがついに開始する日が来ただとか、部活の成果を発揮する高校最後の大会当日だとかに読むことも出来るだろうとは思う。ただし、そうなると「ネ」「ヨ」なのが、ふざけすぎて面白いものになってしまう。

 この句では、「と言えば~という」という分かりやすい型が示されている。

 親が子供に、何食べる?と言って、子供が親に、ハンバーグと言う。
 Siriに明日の天気はと言うと、Siriは雨ですと言う。

 思いつくままに型に当てはめてみた(この代入は正確ではなく、それについては後述)。今挙げた二つは、最初の「言えば」要素は「聞けば」に言い換えられる。何食べる?と子どもに聞いて、子供は回答を親に返す。Siriは投げかけられた質問に対して忠実に答える。
 これは、会話している(会話になっている)例である。

「いよいよネ」に対して、「いよいよヨ」。これは果たして会話は成り立っているのか。
 ここで読みが二つに分かれる。最初に述べた、これはどういう状況なのかという想像に関わる大きな分岐である。
 二番目の「いよいよヨ」と言った側が、話が通じている場合(会話できている)と、話をしてはいない又は話が通じていない場合の二つである。

 話が通じていないとなれば、「と言えば」「という」と最初の「言」だけが漢字になっているのも納得ができるような気もする。こちらは確かに言っているので、発言したことが漢字で強調される一方、向こうは通じず機械的に返しているだけなので「という」とニュアンスが柔らかくなっている。入力に対してそれをほとんど変えず出力する、計算器みたいな相手(機械かもしれない)が喋っているようにも見えるし、寝ぼけていて何が「いよいよネ」なのか全くわからず適当に「いよいよヨ」と言っている人間の光景も見えてくる。インコが飼い主の声をバグったようにリピートして発声しているようにも考えられる。

 話が通じていない、という可能性は十分に魅力的だが、この句に関しては私はそちらでは読まず、話は通じているとして読みたい。なぜなら、もし通じていないのなら、「いよいよネ」に対して「いよいよネ」と言っていた方が自然だからである。そういう句なら大量に見たことがある(俗に小泉進次郎構文と呼ばれるものもそんなものだろう。「今のままではいけないと思います、だからこそ日本は今のままではいけないと思っている」的な)。全く同じ言葉を返すことでのおかしさや怖さや機械感の演出。
 もし、友達に突然「いよいよね!」と大声で呼びかけられたとしたら、「いよいよだね」と受けながら返すか、「何が?」と疑問にするか、「うん」と簡単に返すかするだろう。ここで「いよいよヨ」という言葉が出てくるのは、シンプルな反復に見えて、案外そうでもなさそうである。

 話が通じていて、なぜここまで会話っぽくない返し「いよいよヨ」が出てくるのか。それは、最初に述べた、喋っている二人の顔の方向にあると私は考えている。
 ここでまた違う会話を考えてみる。

 (お化け屋敷のなかで二人)A「怖いね」、それに対しB「怖いよ」 
 (旅行を明日に控えて二人)C「楽しみだね」、それに対しD「楽しみだよ」

 どうだろうか。「いよいよヨ」とは違う、会話感が伝わるかと思う。二つの文とも「いよいよ」の雰囲気も、同じような言葉を繰り返すのも同じだが、二人が向き合って会話しているような印象がある。

「怖い」「楽しみ」と「いよいよ」との違い。それは、感情そのものであるか、その裏に感情を持っているものかの違いである。
 怖いに対して怖いと返すとき、「私も」怖い、が成り立ち、同じ言葉が繰りかえされたとしても、それぞれの感性に基づいているから、全く同じではない。恋人同士が「好き」「好き」と言いあっていても、それがきちんと会話になっているように。
 一方「いよいよ」は、それを言った瞬間の感情は直接表してはいない。「いよいよ何かが起こる」、その到来の確実さを言っているだけであり、「いよいよ」起こるからどう思っている、とまでは言い表さない。感情ではなく、事実の言葉である、ということである。
 だから、「いよいよ卒業式が明日に開催される」として、Aさんは悲しく思い、Bさんは嬉しく思うかもしれない。このとき「いよいよだね」とAさんが言うとき、Aさんの顔は悲しそうで、それにBさんが満面の笑みで「いよいよだね」と言うと、これはあまり良いコミュニケーションではない、ということになる。

 つまりこの句は、「いよいよ」という語を用いるときふつう浮かび上がってくるはずの「いよいよ起きるからどう思うか」という感情の部分が隠されたまま、「いよいよ起きる」という空気感だけが反復されることで、およそ会話らしくないものになっているのである。
「いよいよね」と言われれば、その裏にあるたとえば「わくわくするね」という感情を拾って、「わくわくするね」と返すのがスムーズである。このように、繰り返すとしたらその裏にある感情の方なのである。

 ここで序盤に触れた「言えば」の処理に戻る。親が子に何を食べたいか聞く例を挙げ適切な代入ではないと述べた。それは、親と子がお互いの方を向いているからである。親は子に向かって尋ね、子は親に向かって答える。
「いよいよネ」と「言」う、この段階では二人が向き合っているようにも見えるが、もしそうだとすれば、面と向かって「いよいよヨ」と返してくるのはなかなか恐怖である。「そうだね」くらいの返事が欲しくなる。

 この返答の仕方、かつ「言えば」を考えたとき、私の中でくっきりと像をもって浮かんだ光景は、「二人がお互いの方を見ず、真っすぐを見つめている」ものだった。
 よくある学園ドラマの、部活終わりの生徒が屋上や河川敷で二人並んで、「夕日の方を見ながら」話している光景に似ている(学園ドラマみたいな句だとは思っていないが)。
 そうすると、「言えば」は真っすぐに前を向いて言ったもの(でも「ネ」だから会話の上では相手の方を向いている)で、言われた相手は目を合わせているわけではないから相手の感情に答える必要も減り、自分のなかの「いよいよ」を消化しようとして、「いよいよヨ」という不思議な返答になった……と考えることが出来る。
 サン=テグジュペリが「L’expérience nous montre qu’aimer ce n’est point nous regarder l’un l’autre mais regarder ensemble dans la même direction.(経験は教えてくれる、愛とは、お互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである)」と書いていたのをなんとなく思い出す。一見会話としておかしな句だが、その顔の方向と、深くでの感覚や空気感の共通を考えれば、自然に見えてくる。

 言葉のラリーとしてのおかしさだけを取り上げた句のように見えるが、「ネ」と「ヨ」という終助詞での方向付け、「いよいよ」という言葉の繊細な選択、「という」と開くことによって会話が起こったことを指示するなど、細かく見ていけば正確に作られているなと感じる。
 松永の他の句を見てみても、「死にながら泣くから部屋を出て行って」「どこからでも見えてだあれも見ない家」「これ以上もう父さんは削れない」など、方向や主体の見えなさ(いるとしても感情がまったく見えてこない)に特徴があるように思う。
 二人には「いよいよ」何が起こってしまうのか。そして二人は、どう思っているのか。そしてお互いがどう思っているのかをどれくらいわかっているのか。
 私には、この二人の背中を見ることしかできない。

〇 

 蛇足としていくつか書いて終わりたい。「と言えば~という」の形を見て、瞬時に思い出したのは金子みすゞ「こだまでしょうか」と、〈つま先を上げてメールをしていたらかかとで立っていたと言われる/土岐友浩〉だった。会話には本当に色んな形があり、こだま、山彦、伝言リレー、噂、拡声器……。誰かが何かを「言う」とき、それがどういう形であるのかから想像したい。
 私はよくこの鑑賞コーナーで、主体が機械である可能性や、語られている世界が現実ではない可能性について触れている。一応そういうこともあるかもしれないよ、くらいの雰囲気で書いているが、私自身はかなり本気でその可能性について考えていたりする。「いよいよネと言えば」と書かれていれば、言ったんだなと読むしかない(それが本当であると信頼して読み進める以外手はない)が、もしそれが言ってなかったら。言ったのが宇宙人だったら。

 人によっては、そういう作品世界を急激に(意味もなく)拡げてしまうのは読みとして面白くない、と思われるかもしれない。
 その作品にとって一番いい読みを、と思ってそういう可能性について考えているわけだが、そもそも「作品にとって一番いい読み」とは何なのか。未だに分からない。

 私は中学生のときに出会った一冊の推理小説にはまって、それ以来ミステリに耽溺してきた。そして高校で俳句、大学で短歌、川柳、現代詩に出会った。
 そこで思ったのは、あまりにも「地の文」への感覚の違いがあること。「信頼できない語り手」や「叙述トリック」などの用語があったり、後期クイーン的問題が考えられていたりがそうだが、地の文をそもそも信用してしまっていいのか、登場する主人公の視点、探偵の情報を確かなものとして受け取っていいのか……。
 短歌では私性の問題が前衛短歌以降定期的に話題に上がっているし、石井僚一の「父親のような雨に打たれて」の一件も記憶に新しい。が、それは作者/主体の次元であって、語り手が真の情報を語っているかどうかなどという語りと語り手の問題にまではまだ深く到達していない印象がある(このあたりの短歌の文献をきちんと当たっているわけではないので、実は進んでいるのかもしれませんが)。
 俳句にいたっては、虚構かどうかのような次元で永遠に止まっている(語り手がどうこうに到るほどの文字量が与えられていない/そういうことを企むのは俳句の面白さの範疇を越えている というような雰囲気もあり)と思う。

 短歌も俳句も、テクニック自体はまあまあ飽和しかけてきた今、誰がそれを語るのか(語っている人(作者)の方に重きがおかれる)、という段階になっている(戻っている?)と私は体感で思っている。そんな時だからこそ、逆に語りの部分を考えていきたい。「連作」という機構の力は、そこに眠っていると私は信じている。

 評から離れて所信表明のようになってしまったが、この「いよいよ」の句はそういう点で言えば、語りだけが浮き上がったような形をしている。これを言っているのが誰なのか、何故こんな事を言っているのか、何故そんなことを言い返すのか。
 川柳は、そもそも、すっと主体に同化して読める短歌や俳句とは性質が違う。そこに世界が生の形で(あるいは異常なまでに精密に構築された形で)存在する。その世界が現実なのかどうか、主体は作者かどうか、から話が進むわけではない。その世界を受け入れるかどうかから強引に始まる。どんな声で、どんな顔で、主体は喋って、思って、それを語り手はどう記述しているのか。語り手は迫られて書いているのか、余裕をもって冷笑を浮かべながら書いているのか。
 それらを短詩で考えていくヒントが川柳にあると、私は確信している。
みんなは僕の替え歌でした/暮田真名〉、〈小雪降るときちがう声で言うとき/八上桐子〉、〈手紙ソムリエ手紙ソムリエおまえは幸せになる/柳本々々〉。

記:丸田