作品7句「脳天壊了」(「俳句」2025.5)をどう書いたか  柳元佑太

旅先で

 旅の目的は幾つかあった。第一に香月泰男の絵を見ること。香月はシベリアの抑留体験を持つ画家である。院生のときに足利の美術館で一度、初期の「兎」という絵を見たのだが、それ以来わりと気に入っている。山口県長門市は彼の出身地で、そこに小規模ながら美術館がある。

 第二に、門司港に行くこと。ここは舞鶴と並んで引き揚げ船の受け入れ拠点でもあった。シベリア抑留及び引き揚げに解像度を上げたいという気持ちがあった。そしてせっかく引き揚げのことを考えるのであれば自身も船旅で、つまり横須賀から新門司までフェリーでの船旅を試みてみようというわけだ(ちなみに21時間かかる)。吉田知子の「ニュージーランド」という短編を読んで以来、私は船旅がかなり好きになっている。

 第三に角島灯台に登ること。「登れる灯台スタンプラリー」なるものへの参加を年初に思い立った。登れる灯台は全国に16か所点在していて、一回の旅で一つの灯台に登るとすると、単純に各地へ16回も旅をする口実が出来る。単純に辺鄙な海辺に行くのも好きだ。

ぼくはこれまで、ひとりで旅をするということに、ひどくこだわってきたように思う。ぼくにとって旅は、なによりもまず、魂が自分を脱して飛翔する時であったから、知っている人といっしょに行くことで、いつでもその人(たち)をとおして、変身する以前の自分につれもどされるということを好まなかった。自分をその過去とつなげてしまう同行者のいないときの方が、魂はとおくまでゆくことができる。 真木悠介「方法としての旅」

 真木がかつてこう述べていたが、一人旅にはそれにしかない良さというのがある。 魂の飛翔というほど格好いいことを言うつもりはないけれど、やはり一人で見知らぬ土地のなかを誰でもない人間として歩くというのは嬉しい。見慣れない植生の花に立ち止まることもできれば、港の野良の猫をつかのま追いかけたりすることも出来る。旅ごころも旅のうれいもほしいままだ。

兵隊シナ語を使って

 北海道出身ということもあって季語というものをそもそも「自分の言葉」と思ったことが一度もなく(北海道において季節は歳時記的運行などしない)、最初からファクションとしてしか接してこなかった。季語というものが持つ帝国主義へのロマンティシズムや、あるいはそもそも俳句それ自体が否応がなく引き寄せてしまってように見えるナショナリズム的美学に(正しい日本語とは何か? 自然な日本語とは何か? 平明でわかりやすい日本語とは何か? そしてそれはだれにとってか?)、いかにからめとられずに、あるいはからめとられながらも抵抗の痕跡をのこすか。そういう意識は常にあったが、はっきり言えばこれは私の惰性から、季語は手放せずにいたことに、意識的に手を入れたかった。

 このとき、手掛かりになるだろうと思って温めていた句材というかアイデアが、兵隊シナ語である。兵隊シナ語とは日中戦争勃発後に日本陸軍将兵の間で使用された、日本語と中国語のクレオール言語である。戦争に伴う臨時言語だったため日本の敗戦と共に使用されなくなったが、戦後に戦争経験者が俗語として使うことがあった。私はこれを吉田知子の短編「脳天壊了(のうてんふぁいら)」にて知った。「脳天壊了」は「頭がいかれちまったな」くらいの意味である。

 兵隊シナ語は、ひとつには正格な日本語、端正な日本語、美しい日本語というイデオロギーを破壊する。また、俳句が俳句である以上どうしても抱え込んでしまうナショナリズムをそもそも明示的に抱え込んでいる言語であるから、ナショナリズムが透明化される恐れがない。こういう見通しがあって、旅の中でなんとか兵隊シナ語を用いた連作を作ろうと考えたのだった。そういうこともあって、旅先には門司や長門など、引き揚げのことを考えうる土地を選んだ。

本を読みつつ旅をする

 旅に出る前には家の本棚から数冊本を抜いていく。吉田健一は旅先で本を読むなんて愚かだみたいなことを述べていたが、私は旅が入れ子構造になる感じがあって、旅先で本を読むのは好きだ。つまり本を読むということがそれ自体ある意味では旅なのであって、旅先で本を読むということはある意味では実際の旅の他に書物の世界の中の旅をするという、二重の旅をするということになる。その二つの旅が交感照応するような本をもっていけたらしめたものだと思っている。

 もちろん、思いのほか時間がとれなかったりして読めないこともままあるし、それはそれでいい。今回は『シベリヤ物語 長谷川四郎傑作短編』(ちくま文庫、2024年)をもっていくことにする。短編というのは実際の旅の隙間に読めるから具合がいい。長谷川四郎は元満州鉄道の社員で、徴兵され、シベリアに抑留されている。

 船は真夜中に横須賀を出た。一週間の勤労に窶した身体は眠りを欲していた。眠いが寝付けない。ツーリストAという部屋はありていに言えば、カプセルホテルのようなねぐらで、横たわる人間をいかに省スペースで運ぶかということが考えられている合理的な作りをしている。価格は一万円と少し。移動費と宿泊費を兼ねていると思えば安い。船が揺れるのと、隣室のいびきで睡りは断続的であるのだがそれもまた一興である。どうせ眠れぬのならと思って本業の仕事を少し進めていたら、いつの間にか眠っていた。

 昼過ぎ、姉妹船とすれ違うとアナウンスがあったから甲板に出てみる。いかにも春の海というのどかな淡い海がとろんと広がっていて、船と船はすれ違いざまに呼応するように汽笛を鳴らし合う。同じ運行会社のバスがすれ違う時、運転手同士が手を挙げて挨拶するのを見るのは何となく好きなのだけれど、船の汽笛はやや過剰演出の感もあって興が削がれる。しかし、そんなことはどうでもよくなるくらい波は穏やかだ。 

 船には露天風呂やサウナもついている。豪奢だ。自衛隊員二人組とサウナで一緒になる。以前大洗‐苫小牧のフェリーを利用したときも自衛隊と乗り合わせたから、自衛隊の移動手段としてフェリーというのは常套なのかもしれない。東京だと自衛隊員の存在をさほど思わないけれど、地方だと自衛隊というのは急に距離が近くなり可視化されるものの一つだ。地元・旭川にも駐屯地があって、国道を自衛隊のトラックがよく通っていた。自衛隊への勧誘のポスターは至るところにあり、親の職業が自衛隊という友人は沢山いた。サウナの自衛隊の二人組は、駐屯地のサウナよりは温度が熱くないとか、帰投するときに時間を巻くためにコンビニに寄らないはずだとか平和な話をしていた。

 霞がかった島々が、昼の潮のうえに現れては流れてゆく。

 船室で読書をする。黒パンと酸っぱいキャベツ、貧しいロシア人農夫たち、抑留された日本兵。ロシア人にも日本兵にも分け隔てなくパンを振る舞うロシア人寡婦の腕のうぶげの金、野菜集積地と鉄道、礼拝堂と名付けられた死体置場。

 本を閉じてデッキに出れば、鮮烈な春の夕焼けが左舷の九州側に沈んでゆく。右舷には愛媛の半島が見えて、半島の山並みに尾根に風車が立ち並んでいる。けざやかな夕日光線が小波を照らしをかける。

門司の安宿で句を書く

 門司港についたのは21時頃。一瞬尻込みしてしまうくらいたいへん奥ゆかしく朽ちたビジネスホテルが今日の宿だ。

 このご時世一泊4000円だが、部屋自体は快適である。船の中の読書でかなり言葉が頭の中に滞留する状態を作り出せたので、ここで集中して句を作ることにする。かつて満州からの引き上げ拠点であった門司という空間の地霊に身を預けつつ、これまで自分の中に蓄積していた植民地、引き揚げ、抑留の言葉を引っ張り出してくる。言葉として相手取りたい語は、スプレッドシートにメモしてある。

 これらの語を没入の足がかりにして、自分を「場」として言葉に明け渡す。到来するものを受け止めたときの身体の起こりが言葉に現れる。ロゴスと結びつく秩序ある言語では無く、過去の人物の実存が食い込んだ混沌として、語を感じながら、それを受け止めて引き込む。参照した言葉と身体が擦れあい、身震いする身体の手応えを、現象界に持ち込む。どこまで自分がそれに介入して俳句という鋳型に押し込むのかはかなり一回性の強い判断だけれど、そのあたりは一方でかなり理知的、構成的に処理をする方だと思う。それでいてなお統御しきれない言葉の混沌があるから、スリリングである。

 過去と現在が混線的に入り混じる句が20句くらいが一気にかけたので、眠る。わたしにおける参照性とはいま現在このようなものであって、あるテクストと意図を持って親愛的な距離を仮構する営みとか、あるいはデータベースを利用した技術至上主義とか、そういうのにはほぼ興味が無くなって久しい。元来、参照というのは意図的なものになり得るはずがなかったのだ。このあたりは「ねじまわし」5号で書いているので、どうぞ。

レンタカーで事故を起こす

 早起きして車を借りて走らせる。俗にいうペーパードライバーだがこういう思い切りはいい方だ。関門海峡を渡って北上、下関市街を抜けて長門・萩の方面へ。途中で観光地化している角島灯台に寄ったのは「登れる灯台スタンプラリー」に参加するためだ。無事印をもらう。風も穏やかな春の海で、灯台は春の日差しをやわらかく照り返している。浜木綿が風にゆれ、鳶の声が遠くから響いていた。

 もう少し車を進めると千畳敷という高原があった。この高原からは日本海が見えるという触れ込みである。車を走らせてみる。だだっ広い駐車場には人っ子ひとりいない。日本語には油断大敵という言葉があるが、流石人口に膾炙しているだけはあって、一定程度真理を言い得ているようだ。縁石に車の前部から突っ込んだ。

 焦りつつ車を降りて車の下部を覗き込めば、バンパーがしっかり破損している。レンタカー会社に言われた通りにふもとの警察署に電話をかけて事故を報告する。パトカーが高原に到着するまでは1時間ほどかかるということだ。

 もうすでにこのとき私は泰然自若と構えはじめていた。杜甫に〈国破れて山河在り〉という詩句があるが今回は〈車破れて山河あり〉といったところで、私がいくら焦ったところでパトカーが早く来るわけではない。春の海はおだやかで、山の木々は芽吹き、春の風が優しく吹き抜けていく。昨日作った句を推敲しつつ、パトカーの到着を待った。表題句「腦天壊了(のーてんふぁいら)藪の齒醫者は天卽地」はうまく説明できないがこのときにスッと出来て、しばらくこの作り方で自分は自分のことを面白がれるなと思った。

 駆けつけてくれた警察官は優しかった。車を借りる際に入れるだけ保険に入っておいたので賠償などはなかった。保険は大航海時代に香辛料貿易への出資リスクを下げるために発明されたらしい。保険は発明であるとこのとき強く思った。

記:柳元

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